時に写真は、言葉よりも鮮明に気持ちを示す。半径数メートルになった私たちの世界で
これは、私の独白、みたいなもの。
そうそう。「旅に出てはいけない」と世界がなって、私がそのうちに感じたのが、「出なくてもいいのか」という、じつは少しだけ安堵に似た気持ちだったこと。
「急いで生きなければならない」とか、「頑張る」……つまり「背伸びをし続けて走る」とか、「誰かと競争したり、比べられたり、比べちゃったり」というような世界から、少しだけ距離をとって、「私を取り戻したい」とこの数年感じていたから。
思い返せば、ちょっと変な話ではある。
だって私は、「場所を問わずに仕事をして、日々刺激的でカラフルな世界で生きていたい」と心底願ったから。家をなくして、仕事も変えて、この数年間、旅をしながら暮らしていたのだ。
語学留学をしながら、周辺の島々で遊び、仕事をしたフィリピンでの数週間
世界は綺麗で、色彩豊かで、全然違うことばで満ちて、そのままどこへでだって行けそうで。
夢にまで見たマルタ島。飛行機で数十分の隣国・イタリアに週末旅をしながら、世界中の生徒と共同生活をした
それこそ私は、旅に出たいと願う人がよく思い浮かべるフレーズ、「本当の私探し」みたいなものに出たはずだったのに。
そう、誰よりも生き急ぐような暮らしを、自ら選び取ったはず「なのに」。
それらがありがたいことに実現して、一定期間継続できたら、今度は「その上で、いまの私の本当の気持ち。もっと言えば、ニュートラルを知りたい」と感じたなんて。
困ったちゃんか? 人生は、バランスを取ることでできている。
***
……さて。
2020年の冬から春にかけて、「旅が好き」とか「自分をわかってる」とか「わかってない」とか関係なく、人類みな平等に、世界は急に狭くなった。
あんなに遠くを撮っていたのに、あんなに「もういっそこのまま行けるところまで」と祈っていたのに。
このまま旅をし続けるだけなのだろうか?と疑問があっても、「心のときめく先は、どうしても海の向こう側にある」と信じて疑えなかった。だから、あの先を撮り続けて。
けれど、そんな中で、突然変わった私たちの世界。
「これから、私はどうするのだろう?」と自分でも自分がわからなくなりそうだったとき、教えてくれたのは五感でも恋人でもなく、愛するカメラが捉える景色だった。
海外の旅に、2019年、ひとときも離れず寄り添っていてくれたNikonのZ 6。
そういえば、と思い出す。2019年の夏の後半ほどから、迷いつつではあったけれど、私はトルコを旅しながら、遠隔のビデオ通話で関東の部屋を探し始めた(そんなことができる時代になって、びっくりだ)。
そうして、夏の終わりに実際に借りた部屋で、秋の始まりと冬へのグラデーション、窓から見える木々が赤や黄色に染まり、そして裸の木へと戻っていく様や、雨の日、風の日、穏やかな春へと変わっていく様を、じっと定点観測し続けた。
なんでもない、私の暮らし。今まで私が手放してきた「日々を紡いでゆくこと」を、どうしてだか丹念に写真という形でおさめ続ける。
遠く数百メートル先にあるような、モスクではなく。飛行機の窓から見える、青く透き通った北欧の海でもなく。
手を伸ばせば届きそうな(そしてそれらは、実際にいとも簡単に届くのだ)「そこ」にある、出窓に差す光や、段々と色が出てくる紅茶、徐々に咲いてゆく花々に、水をやらないと枯れてしまいそうになる植物たち。
自分以外の生き物と、暮らすこと。季節の変わり目や気温の変化を、私よりも先に察知する自然を見つめること。
そういうことが、私には圧倒的に足りていなかったのだと。そして、本当は心の底から欲していた事象だったのだよと、ファインダーの先は教えてくれる。
時に、写真は対話よりも何よりも、私の心の動きや温度、望む暮らしの速度や何やらを、正確に教えてくれることがある。
写真を撮ることは、世界とどう向き合いたいかを知ってゆくこと。
私が旅先でシャッターを切り続けた理由は、「時間を閉じ込めておきたかったから」だった。綴らなければ、おさめなければ、いつかこの手のひらからこぼれ落ちてしまうであろう些細なこと。
たとえばそう、その時感じていた、風や音、気温や湿度、交わした二言三言の会話、誰かの眼差し。そういった美しかった一瞬を、忘れたくない、覚えておきたい。できれば大切なあなたに伝えたいし、共有したい。
だって、生きることは綺麗なこと。なのに、私たちはいつだってそれらを忘れてしまうから。
新しい日々の相棒になったのは、今まで愛用していた35mmや50mmのレンズではなく、NIKKOR Z 85mm f/1.8 Sの中望遠単焦点レンズ。ここだけ、ちょっぴり変わったところ
世界にあれほど求めていた美しい瞬間や色彩は、この小さな家や部屋という世界にも溢れていることを、私はこの数ヶ月で痛いほど実感した。
世界は狭くなったのではなくて、これからさらに遠くへ深く、潜ってゆくことができるのかもしれない。だって、物理的な移動ができないとしたって、世界は広く、ただただ対象は美しく、そして私は結局「今を閉じ込めて、コレクションしておきたいのだ」と気づいたから。
だって私たちは、旅先だとしても、日常だとしても。やっぱり変わらず、いつかは綺麗に忘れてしまうから。こんなに愛おしかった瞬間たちを、いつでも取り出せるように。少しでも長く覚えていられるように。
きっと、暮らしがぐっと近距離に寄ったことで、私ももっと被写体に近づいてみたくなったんだと思う。85mmの中望遠単焦点レンズで覗く世界が、気分にぴったりと合っていた。被写体と、まるで本当に目が合う、みたいな感覚
動き出せそうだ、と思う。動き出したい、とも願い始めた。止まることはだめなことじゃない。見つめ直す、素敵な時間。
今までと形が違っても、私はまだきっと旅に出るし、日々を紡ぐ。ただ、「暮らすように旅をする」のではなく、これからは「よりよく暮らすために、旅に出る」のだろうと思っている。
私だけでなくたくさんの人が、この数ヶ月に感じたことを、これからの10年間くらい、抱きしめながら生きるのだと思う。例えば3.11の記憶が、以後の人々の行動を、少しずつ変えていったように。
ことばと書くことだけでなく、写真、という手段があってよかったと思っている。遠くと、近く。愛することのできる対象が、増えていることに、撮ることで自覚的になってゆく。
旅に出始めた頃と、少し長い未来を見始めた今で、写真の色彩が少しずつ異なってきたことを、私はとても喜ばしい内面の変化の表れだと思っている。
トルコ・イスタンブールで出会った夕暮れ
何気ない日々の中で、今私が惹かれる花々。1週間以上つぼみだった小さなラナンキュラスが、咲いた日の朝に
梅雨の季節をこえて夏がきたら、また色彩や、写真に写る気持ちの速度は変わるのかもしれない。
そういう自分に、並走してくれる写真という存在に出会えて、そして今も一緒に日々を歩けて、多分私は、とても幸せな方の人間なのだと思っている。
今日書いたような内容をお話するイベントを企画しました。お申し込みいただいたたくさんの皆さま、ありがとうございました。
当選者の方には、当選通知が届いております。ぜひご確認くださいませ。
そして、残念ながら、応募したけれど当選しなかったよ、という皆さま。申し訳ございません。またぜひ、次回も何かしら企画できたら、と思います。その際は是非またご参加くださいませ。
イベントのレポートは、またこちらのnoteアカウントにて公開いたします。
#写真に重ねる私たちの日々と温度
" 伊佐知美&古性のちが魅せる、東京=HOMEでの自分らしい丁寧な暮らしとマインド。2人が、“ホーム(帰る場所)"と語る「東京」の魅力とは? 美しい写真と言葉からその想いを紐解きます "
雑誌『GENIC』最新号にて、「Good Home with TOKYO 生きる場所と暮らす場所」と題し、HOMEでの暮らしについて語らせていただいています。ぜひ雑誌を、手に取ってみてください。