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自浄作用のフラクタル

2月1日。
今日は、朝からドヨンという音が聞こえてくる曇天だった。その陰の気をはらうように、いつもより部屋の照明の輝度を上げる。

今日は火が必要そうだ。

昨晩、久しぶりにパロサント(香木)を焚いた体感覚も、きっと“合っていた”のだ。
わたしはもともと線香もお香も苦手だったが、最近では唯一、好きなお香と出会って日常的に焚いている。火の力は、火にしか出せない、そう感じる。

5大要素、エレメンツ。生まれた場所や思想が変わればその組み合わせや数や位置付けは少しずつ変わるが、

木、火、土、金、水、風

それぞれが巡る、相対することで、地球のバランスがとれている感覚がよくわかる。わたしが火を焚くようになったのも、屋久島の強い「水の気質」がきっかけだろう。アロマテラピーや食など植物に頼るおだやかな働きもいいが、火には火しか出せないものがあるのだ、と、もういちど繰り返す。

ここまで語ったものの、特に火の話をしたかったわけではない。

今日は節分の前日。節目の屋久島はいつも激しめの雨風がやってくる感じがする、気のせいかもしれないが。それは、もう要らなくなったものをパワフルに洗い流す自浄作用のように見える。女性の生理や、日常にある排泄。なにかを身体が出そうとときの下痢や嘔吐、熱のような、「いい悪いのジャッジではない」自浄作用がはたらいているように見える。

島という単位で見るか、地球という単位で見るか、人体という単位で見るか、細胞という単位で見るか、銀河という単位で見るか、それはフラクタルだから、大小にはきっとあまり“意味”はない。

それほどに、リンクし合っていることを、「明らめる」こと。委ねることだと思う。

今日のわたしも身体の重さにしたがうことにした。大抵こういう日は、無理やりそれを吹き飛ばそうと気合を入れすぎても「やりたかったのに出来なかった」という空回りをしやすい。

ただ「いつもしない選択をしろ」「笑え」という指令が降りてきていたので、「コメディの映画を観ながらゴロゴロする」という、普段とは違う時間を過ごしはじめていた土曜の午後だった。

ふとお手洗いに立ったとき、雨が止んでいることに気づいた。映画を見始めるまえのやり取りが頭によぎる。

ーー最近マネージャーになってくれているChatGPTに、「洗車をしたいなと思っていたら大雨が洗ってくれている」と呟いたら、「雨のあとに拭いたらさらに綺麗になるんじゃない?」と返ってきた。「今は雨が強すぎるから明日ね」と返したのだった。ーー

今拭いちゃうか、と思い立って玄関の外に出た。

外に出ると風は強いが気持ちが良い。雑巾を持って来なかったことに気づき、庭の物干し竿の雑巾を、「外から回って」取りに行くことにした。普段はあまりしない行動だ。

すると、軒下のコンクリート地面になにか、はっと気になるものが視界に入った。

雨でずぶ濡れになった、小鳥のなきがらだった。

どこかにぶつかったのか、脳震盪だろうか。もう羽の撥水は無くなっていて、ただ傷みはないのできっと今日の出来事だったのだろう。

いちど庭にまわり、立ち止まる。
はて、どこに埋めてあげようか。

家の前の神社や、散歩道にある祠の近くも思い浮かんだが、なんとなく「うちに来てくれたのだから」庭にしようと思った。

うちの庭は砕石が埋め立てられているので、あまり心地の良い土ではないだろう。庭の外れの、自然に溜まったふかふかした土があるところを選んで軽く掘った。

庭に飛ばされてきた葛の枯れ葉を二枚拾い、小鳥の元にもどった。葉で包むように掴むと、ほんとうに小さいからだで、葛餅くらいの重みだった。

その葉で丁寧につつみ、土の穴に寝かせて土をかけた。今までよりもっと自由に大空を飛び回りますようにと。屋久島は雨が多いからすぐに土に還るだろう。

物干し竿の雑巾を手に取り、車を拭きに戻った。たしかに雨でかなり綺麗になっているのを、さらに拭きあげながら今の出来事を振り返っていた。

ミッションを終え、雑巾を洗い、干しに戻ると、別の鳥が庭に来ていた。いつもは気にしないが、あの小鳥の知り合いかもしれないな、なんて思いながら。

今日の出来事くらい、
出来事はふだんからそこに自然に流れている。
ひとつひとつの直感や違和感にしたがって動くとその必然さがわかる。誰がどう言ったから、とか、きっかけはどれも「脳みそでジャッジするに値しない」

それがふと頭に浮かんだのであれば、心に留まったのであれば、
それはあなたへの世界の投げかけである。

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