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車椅子のみいちゃんが亡くなった

小学生のとき、同じ学年に車椅子に乗っている女の子いた。仮にみいちゃんと呼ぶことにしよう。

みいちゃんは一人だけ別のクラスだった。当時、「特殊学級」と呼ばれていたみいちゃんのクラスに、わたしはときおりクラスメイトといっしょに遊びにいった。同じ教室で授業を受けたことはなかったし、みいちゃんがわたしたちのクラスに来たこともなかったので、何がきっかけでいっしょに遊ぶようになったのかは覚えていない。わたしの妹も、別の学校で特殊学級に通っていたので、なんとなくみいちゃんに親近感を感じていたのかもしれない。ときどき思い出したように「今日はみいちゃんのところに行こう」と言って、1階の昇降口の近くにあるみいちゃんの教室で遊んだ。みいちゃんとは外では遊べないことになっていたので、教室にあるカルタやパズルをすることが多かった。

一度だけ、室内で鬼ごっこをしたことがある。「ハイハイ鬼ごっこ」といって、床をはって鬼ごっこをする遊びを思いついたのだ。みいちゃんはハイハイの名人だった。脚を軽く浮かせるようにして、しっかりと太い腕で体を持ち上げ、スイスイと進む。水の流れに運ばれていくかのようなみいちゃんのハイハイは、誰より速かった。きっと普段からハイハイをして生活しているのだろう。みいちゃんから逃げようとどんなに一生懸命手足を動かしても、すぐにつかまってしまう。ドタバタと教室で大声をあげながらはしゃぐわたしたちに、みいちゃんの先生は苦笑いしていたけれど、「今日だけね」と大目に見てくれた。おかげでとても楽しかった。クラスメイトの一人は、「ハイハイ鬼ごっこ」のことを、イラストつきで学級新聞に載せる作文に書いていたほどだった。

みいちゃんは、教室から続く廊下のてすりにそって、よく歩く練習をしていた。足取りは、おぼつかなくて、一歩出しては両足をそろえ、止まり、また一歩出しては両足をそろえ、バランスを取りながら、ゆっくりゆっくり進んでいく。細い平均台の上にいるみたいに、すぐにバランスを崩して、両手を廊下についてしまう。みいちゃんの先生は、ずっとその様子を後ろから見守っていて、わたしもときどき、先生のとなりでみいちゃんが歩くのを眺めていた。

これがリハビリというものなんだろうか。インターネットもない時代の田舎の小学生だったわたしには、「歩けない人は歩く練習をすることがあるらしい」というあやふやな知識しかなかった。みいちゃんの病気の名前も知らなければ、どうして歩けないのかもわからなかった。みいちゃんは、1年生の頃からずっと練習していたけれど、2年生、3年生、4年生になっても、歩けるようになる気配はなかった。名前も知らない器具がつけられたみいちゃんの脚は、とても頼りなげで、みいちゃんの体を支えることができなかった。学年が進むにつれて、「本当にこれで歩けるようになるのかな?」とわたしは疑問に思うようになっていた。だけど、それは口にしてはいけないような気がして、誰にも聞いたことはなかった。

4年生のある放課後、みいちゃんは廊下の角から次の角までの短い直線を、床に手をつくことなく移動することができた。相変わらずゆっくりなペースで、とても時間がかかり、途中で何度かバランスを崩しそうになっていた。だけど、その回はいつもより長くバランスをとって歩くことができたのだ。曲がり角でみいちゃんが止まり、ゆっくりと床に手をつくと、先生がいきなりバッと両手を宙に上げた。そして、肩がギュッと上がった奇妙なポーズのまま、暗記してきたセリフを読み上げるかのように言った。「やったー!歩けない子どもを歩けるようにしたぞー!」と。

わたしはゾッとした。この人は、みいちゃんのために歩く練習をしていたわけじゃなかったんだ。歩けない子どもを歩けるようにした、奇跡の先生になりたかっただけなんだ。わたしの役割は、目撃者だった。

当時のわたしは、大人というのは、もっと立派なものだと思っていたのだ。だから、汚いものをいきなり鼻先に突きつけられたみたいな気分で、みいちゃんとは何の言葉も交わさないまま、その場を逃げ出した。両手をついたみいちゃんは、自分の奇跡を喜んでいただろうか? たぶん、みいちゃんもわたしもわかっていた。たしかにみいちゃんは両足で移動できたけれど、移動手段として「歩く」ことはできないままだ。これからも車椅子で生活していくし、車椅子が使えなかったとしたら、歩くよりはったほうが速いに違いなかった。

それからなんとなく、みいちゃんのクラスへ顔を出しづらくなってしまった。「みいちゃんと遊ぼう」と声がかかったこともなかった。クラスはみいちゃんがいないまま回っていく。みいちゃんのことをあまり考えずに過ごしていたある日、突然、何の前触れもなく、帰りの会で告げられた。

——みいちゃんが亡くなりました。学年全員でお葬式に行きます。

いつの間に、そんなことになっていたのだろう。なんの心の整理もつかないまま、棺桶の前に出席番号順に並ばされていた。別れのあいさつで悔しいと涙ぐむお父さんの声には、心からの悔しさがにじんでいて、ずっと病気と闘ってきたのだとわかった。みいちゃんが死んでしまうほど重い病気にかかっていたとは、思いもしなかった。それどころか、みいちゃんが普段どれくらい学校に来ていたのかもわからなかった。学校に来ている日はどうやって過ごしていたのか、他のクラスと同じ勉強をしていたのか、あの先生と二人だけの教室で何をしていたのか、なんにも知らなかった。教室に遊びにいった日の休み時間と、たまたま歩く練習をしているところを見かけた放課後。わたしの知っているみいちゃんの姿はそれだけだった。

家に帰ってから、わたしは泣いた。悲しみの実感はやってこない。でも、悔しかった。なんにも事情を知らない。知識もない。だから、こんなことを思うのは間違っているのかもしれない。それでも、みいちゃんが、ずっと歩く練習をしなければならなかったことが、悔しくて悔しくてたまらなかった。みいちゃんが生きているうちにやりたかったことは、本当に歩く練習だったんだろうか。10年しかない、人生だったのに。

わたしがみいちゃんほど速くハイハイできなくても、誰も「ハイハイの練習をしなさい」なんて言わなかったじゃないか。もし練習しろと言われても、わたしは全然やりたくない。理不尽だって思うだけだ。みいちゃんが何年も歩く練習をしていたのは、この世界が歩く人たちを中心にできているせいなんじゃないのか。

世界のルールが違っていたら、みいちゃんは歩かなくてもよかったはずだ。車椅子だってハイハイだっていい。動かなくたっていい。歩けるとか、歩けないとか、何ができるとか、できないとか、そういうことを超えて、いっしょにいられる世界だったらよかったのに。教室に遊びに行くたび、パッと顔をほころばせて、嬉しそうに車椅子を滑らせてこっちによってきたみいちゃん。もっといっしょに遊べばよかった。「ハイハイ鬼ごっこ」をいっぱいやればよかったんだ。そうしたら、歩けなくても、みいちゃんはヒーローだったのに。

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イケダトモミ
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