庭のメタ視点とはー「庭のかたちが生まれるとき」(読みかけ)の感想 #0092
この本、まだ読み途中なのですが、大変に興味深いので一度書いておこうと思います。
今まで、自分の仕事として庭の話をいくつか書いてきましたが、それは割と事業方面から書くことがほとんどだったように思います。
んが、自分はどちらかというと初めはひとつの「制作物」として見ていたので、そのことを思い出すきっかけにもなりました。また、庭はメタ的な環境の一部だ、ということを思い出させてくれる本でもあります。
庭のプロセスを石の置き方から見ていく
庭づくりのプロセスを見る機会と言うのはほとんどないと思うのですが、この本は作り手の思考のプロセスや周辺環境手に入る資材を含め、庭ができるまでの過程をつぶさに記録していきます。どのような変遷を持って庭ができていくのかということが非常によくわかるのです。
特に序盤から「石の置き方」を観察していきます。
1手目になぜこの石が置かれて、その上で2手目3手目と、どのような流れ、解釈で石が置かれていくのか。それが庭師本人や作業者、あるいは発注主であるお寺の住職のやり取りや、手持ちの材料、庭の元々の環境をベースに展開されていきます。
何かのモノができるというのは、1つの理由からできているのではなく、ちょっとした会話や手持ちの資材周辺環境などによって複合的に決まってくるものなのだと思います。そのことがとてもよく観察されていて面白い。
これは歴史の勉強にも似ていて、「複数のパラメーターをどのように解釈して、見ていくのか」ということの練習になると思う序盤の展開。すでに熱い!
「不安定な状態」で進める
庭の制作過程で面白いことのひとつに「基準がない」ということがあります。
建築でも外構でも、構造物というのは基準があって、その基準に合わせていくのが一般的ですが、この本に出てくる庭師さんは基準を設けない「不安定な状態」で作業を進めます。
あえて言えば、庭に元からあった小さい石を基準にしている話は出てくるのですが、測定の基準になっているわけではなくて、あくまで石を置いていく過程での基準であると思われます。
また、資材(石など)もありあわせのもので進めていきます。特に石の置き方に焦点を絞って話は展開していくのですが、この石も、どこぞの石をまとめて持ってきて、その中から「良さそうな」ものを選んで組み合わせていきます。
自分もよく庭の作業をするときは、基準を設けずブリコラージュ的に進めることはよくあります。というか、理想通りの場所や資材があることは稀(無いと言っていい)なので、有り合わせのものでその場限りのものを作っていく。
画家・大竹伸朗の言う、『「すでにそこにあるもの」との共同作業』という色合いが強く出るのが、庭づくりの特性だよなーと思います。
また、これはまた別に書きたいと思うのですが、寸法が正確でも人間の目には自然に見えないことはよくあります。「人間の目に自然に見える」というのはどういうことなのか、ということにつながっているのです。
施主と作り手の認識の違いを明らかにしている
興味深いシーンに、お寺の住職さんとベテラン庭師さんの庭に対しての考え方の違いが現れている部分があります。(注:「古川」というのはベテラン庭師さんの名前)
ここに「良い庭」に対する一種の対立概念が出てきます。
お寺の住職さんが考えているのは、作り手が名を残すような庭にしてほしいと言う考え、つまり「名を刻むほど良いものだ」という考え。一方で、ベテラン庭師さんが考えているのは「あるようでない」庭。つまり、作品性を排除した「普遍的」である庭。
まあでも。これは「対立的」ではないかもしれんな、とは思いますな。
お互いの「良い」の基準の違いだけで、それぞれが両立したり、共存したり、あるいは自己に内包することはよくあることだからね。
お寺は文化集積の場
お寺と言うのは、文化の集積の場であると言う認識が住職さんにあり、庭もそのように後世に残るものであってほしいと言う思いを作中で語っています。
そういえば昔、お寺の跡取りの友人から聞いた話で、『お寺は情報伝達手段が今のようになかった時代に、情報を伝える中継点の役割を担っていた』という話がありました。ものが取引されるルートの中継地点であり、集積の場でもあると言う特徴をお寺が持っている、と言うのはなかなか興味深い。
この本に出てくる住職さんも、お寺は文化の集結の場であるから、良いものをたくさん見て、それができるまでは寺を作らない方が良いとさえ言います。つまり、お寺にあるものは後世に残る良いものである必要があると考えており、そこには「名前」が付随するものだと言う考えがある、と語ります。
制作物である以上、ある種のエゴが発生する
これは一面、とても理解できる話だなーと思います。
例えば、自分の仕事をとってみても、やはり「人とは違ったものを提供したい」と言う考えがあります。これはある種エゴだと思いますが、いろいろな人に良い庭だと褒められたい気持ちがどこかにあるのだと思います。それはやはり、自分が作る庭を一つの「作品」として見ている部分があるからです。
現代のビジネスの文脈においては「差別化」が価値を生むわけで、「人とは違うオリジナルと提供する」というのは現代的価値だと思うのです。
特にクライアントビジネスになると、この傾向は顕著になるように思います。クライアントに「良い庭だ」と言われたい気持ちで作っている部分が出てきてしまうからです。つまりきっかけが外部要因になっているということなのです。
これは良くもあり、悪くもあるなーと思うのです。
まあでも、スクラップアンドビルドにもなりかねないので、普遍的、本質的で無いものは短期的に良しとされていても、自然淘汰されそうだよね、とは思うかな。
時間的、空間的な連続性で環境を考える
「人とは違う」ことが果たして正しいのか、あるいは「オリジナル」が後世に残るものなのか、ということはよく考えます。
現代文脈で解釈されることは、10年も経てば古びてしまうのは確かだと思うわけです。これも大竹伸朗が言うように「『現代』と名のつくものに面白いものはない」というところでしょうか。
そこには、より本質的な理解、あえて現代風にいえば「メタ的」な構想が大事なのだと思います。そんな中、庭師さんが以下のように語っていた部分が非常に印象的でした。
驚くことに、この庭師さんは、今自分が作っている庭を見ているわけではなかった、ということが途中で語られるわけですな。
背後の山、向こうの山までの岩の連なり、、その中で庭という、いわば人工的な場が、いかに全体感の中に馴染むか、ということを考えているのです。作品性か、非作品性か、という目線ですらなく、より本質的な「ここはどのような場所か」という考えの中にいるわけです。
ここに現れているのは歴史という時間軸、場所という空間軸における、庭のメタ的な解釈です。なぜなら庭は自然である以上、常に変化し続ける環境の一環にいるからです。それは時間軸の変遷であり、時間変化に伴うランドスケープの変化です。また、場所という意味では「その場」は切り取られた点ではなく、文字通り「地続き」の自然の連続性における一面でしかないのです。
この時間的、空間的連続性の環境の中で、今ここに置くべき「庭」はどんなものなのか。それがまるで、合気道の達人の話のように、受け流されるように展開されていきます。
自分の作庭に置きかえてみる
自分でも庭の作業していていて思うのは、特に作業性の高い仕事をしていると、視点が非常に近視眼的になるのです。これを「引いて見よう」と意識していても、どうしても「作業の主体者」としての細部が気になってしまうものなのです。
これを「作業しながら」実現している姿にはとても驚かされます。
最近よく「メタ視点」という言葉を耳にしますが、メタ的であろうとする自分の視点がいかにミクロか、という自覚がないと、メタであり得ることはないと思うのですが、これは作業をしながら実現できている人ってほとんどいないんじゃないかしら、、。
しかしまあ。究極的には、「人と違うことをする」ということも「その場を解釈する」という意味においてメタ的に人と異なるのであれば、「普遍的である」と言えるかも知れない、ということを考えて、とても面白いなーと思います。
わたくしのパートナーは染織家なのですが、「遠い将来、古着屋などで自分の商品が出てくると面白いね」と言う話を時々します。
つまりどこの誰が作ったかわからないが、でもこれが好きと言う感覚を残せるということが作家性なのではないなーということも思ったりします。
今現在残っている庭がそうであるように、庭も遠い将来、通りがかりの人が見た時に、「誰が作ったか知らないけどいい庭だね」あるいはそこが作られた庭と認識されないくらい場に馴染んだ庭になれば、それはとても豊かなことだなぁとも思うのです。
ではでは!
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