本当に良いものに出会った時は、詳細を語らない。
Clubhouseで、有名な編集者が本を紹介するルームがある。
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「タカトモ or 土江英明 or room 名【みんなで朝読書!の時間】
まれに、本の裏側の世界、編集の世界を垣間見れるので、本好きには堪らない。
本の中身、特に、読んで印象に残った言葉や、良かった所、面白い所を、文を抜粋して読んでくれたり、感想を添えたりしながら紹介してくれるのが普通の流れ。
だけど、ある日紹介された本は違った。
心からオススメしたい時ほど、何も語らない(語れない)
それは、「今年読んだ本の中で一番と言える本」と紹介された回。
最初のプロローグだけ読み上げ、あとは内容は殆ど話されなかった。
「お読みいただく楽しみがなくなってしまうから」
そんな風に言われた。
「ゆっくり、じっくり言葉を噛み締めながら読みたい本」というようなニュアンスの表現もあった。
それだけの紹介で、この本を買おう、読みたいと思った。
”話さない”という方法が購買意欲を掻き立てる。
これは、私にも身に覚えがある。
新鮮さを大事に。
私は、メルマガで、自分が好きなアート作品などを西洋、日本美術を問わずに紹介している。
メルマガの目的は、アートは出会いだと思っているからだ。
”私にとってのこの一枚!”
そんな作品と出会うかどうかが、アートを好きになるかの鍵だと。
たった一枚でも、これまでのアートの持てるイメージが180度変わったり、一目惚れによってアート界に俄然興味が湧く、そんな可能性を秘めている。
私はそう思っている。
「こんな作品見たことなかった」
「あるって知らなかった」
と、新しい感覚の出会いは、理屈抜きで心が動く。
また、もっと見てみたいと、欲も出てくる。
そういうパワーがある。
時に美しさ、時に斬新性さ、時に本能的に嫌悪感を抱くような何か…とか。
おそらく、本当に(過去に)「見たこと無い」モノには、人って何歳になっても、新鮮な感動をもたらす。
その感動は、新しい世界を知れたことの興奮と、自分の世界(視界)が広がるような喜びを伴うからではないか。
だけど、その”新しさ”は、当然、個人の人生による。
”展覧会が良かった”
”この作品が良かった”
そういうことは、その人が、その作品と出会う瞬間までの経験と、それと出会った時の心境により、受け取り方が全然違う。
だからこそ、そのモノの良さを、言葉を尽くして説明する難しさ、そして、無意味さや無力感を感じたりする。
でも、一人の経験として紹介しようとすると、言葉多めに ”此処のこれが、私にこう響いた” なんて書くことになり、\此処のこれ/を書くことは、まるで映画のストーリーを話してしまうような罪悪感に襲われる。
それに、何より、新鮮さを欠く。
これが大問題のように思う。
まさに、タカトモさんがおっしゃるように、楽しさを奪う行為な気がする。
話は飛ぶが、皆さまは旅行の時に、インターネットでの下調べを入念にするだろうか?
私は、ガイドブック『地球の歩き方』程度の情報量で、現地に行くのが好みだ。
サイズ感、その周辺環境、景色、距離感、質感、クオリティ…全てが見えてしまう、わかってしまうインターネットを事前にチェックするより、
『地球の歩き方』の中で、せまぜましくやっと載っている、小さく切り取られた古代遺跡や建築の写真を頼りにせっせと探す。
どんなスケールなのか、現実のお楽しみ。
その方が、ピュアな気持ちを味わえる。
本番の時間に期待を膨らませて、予習なしで、自分で体験したい。
「これが良かったよ〜」「私のオススメ」
結局、紹介はそれだけに留めたい、というのが本音である。
だけど、人は、”誰が言っているか”を気にするものではないか。
大ベストセラー本を作った人が言うから信用できる。
原田マハさんが言うから、この絵はホンモノに違いない等々。
でも、人生は十人十色だという当たり前だと言うことを前提にすれば、誰のコメントでも、どんなコトでも、良い出会いの可能性は同じくらいの確率なのではないかと思う。
多様性
私は、あまり発信元にはこだわらず、可能性を広げ、身軽に色々なモノに触れようと心がけている。
本とか、アート作品とか、映画とか、沢山触れておくことが、世界の多様性を知ることに繋がる。
誰かの言葉を信じて、見てみたら、行ってみたら、全然だった。
時間の無駄だった。
そんなこともあるかもしれない。
でも、私は無駄ということはないと思っている。
”誰かのツマラナイ”も、他人の価値観と思想では、つまらないくないのだ。
多様である事実を知れば知るほど、自分の個性も自分の人生も浮き彫りになり、自由になっていく。
アートの効用の一つ(読書とか映画とかと似ている)。
”多くを語らない勇気” を出して、沢山、紹介していこうと思った。