漱石の「道草」
1: 行間にいる漱石
漱石の留学先 イギリス🇬🇧
今期のDiorはスコットランド🏴がテーマ
暗号を駆使してエリザベス女王を暗殺しようと試みた「とされ」断頭台に消えた悲劇の女王メアリー・スチュアートが遺した刺繍や処刑日に身につけていたベルベットのドレスなど苦境においても美を忘れない強い女がテーマ 大阪店リニューアルオープン初日 日本に一点しか入らない商品などもあるということで早速行ってきた。次はメアリー・スチュアートの伝記をお金が入ったら読みたいと思ってたからだ。処刑日に来てたベルベットドレスを着る女 漱石なら癇癪を起こすだろうが、衣装とは記号操作であるとする漱石の大好きなスコットランド文学者トーマス・カーライルも喜ぶんではなかろうかetc思いながらライティング煌めく御堂筋に「道草」❤︎
お向かいにはトランプ再選で株価⤴️のテスラ🚘タイムリー⏰な道草もあり❓漱石から逃れられて気分転換となった
だって
漱石
もう読み進めたくない
辞めたい しんどい
ってなるんだもん
でも
わからない
から
数作品で 終われない
読み続けねばならない
ちょっと休憩が必要だよ
漱石って
でも
何故こんなに
しんどいのか
それは
漱石が しんどかったから🥲
「どういう種類の経験をした結果」
ああなんちゃうんだろう?
「客観的相関物」が欠けているから (エリオット)
漱石自身にも
自身が
分からなかったはず
つまり
漱石は
「行間にいる」のだ
T.S.エリオットがシェイクスピア
に言ったのに同じだ
(柄谷行人 漱石論集成)
漱石も
つまり
漱石執筆作品を
時系列にトータル的に読むしかない
の順に読み並べてみると
見えてくる 漱石が。
2: 「文章」でなく「文」を書く漱石
漱石の第一印象としては
堂々巡りの円環
出口がない
息が詰まる
だから
同じ場所で足踏み続ける
筋のない「反復」
「坊っちゃん」にはまだ「客観的な外界を感じ」「健康な倫理感覚」があったのに💦
「猫」や「草枕」などの初期作品には
特に
筋という筋はないし
漱石は小説ではなく
文を書いている(「エクリチュール」 in漱石論集成)
と柄谷行人氏はいう
前に進まない「反小説」
という定義がピッタリかも
(柄谷行人 「漱石の文」in漱石論集成)
トーマス・カーライルの「衣装哲学」の影響 を受けているとも言われている
(柄谷行人「漱石の文」in漱石論集成)
が
スターンはアイルランドの牧師+小説家
カーライルはスコットランドの文学者
アウトサイダーだ👊
草枕には「非人情」という言葉が多発する
3: 蒟蒻みたいな漱石
言葉の過剰なる戯れが筋を持つことに反発
現実を無化させ 筋をもたないこと
に徹している
何故か?
自分がないから
自他の境界があいまい
それは
「手が蒟蒻のように弱って」など
(第十夜in夏目漱石「夢十夜」)
蒟蒻や寒天という言葉で表されるように
自己がふにゃふにゃ
産婆の到着が間に合わず
赤ん坊を取り上げる「道草」の健三
でもその
クールさ
=非人情性は
どこから生まれたのだろうか
漱石の世界は
ロマン主義 (人情)と
徹底した客観化=自然主義 (不人情=あるがまま)
のあいだ
本人曰く
「非人情」の世界だそうな
和辻哲郎によると
つまり
人情ある優しい人なのである
「坑夫」を読むと
自分と尊敬する安さんの境界が曖昧
さすが
非ー人情
自分=安さんになってる
溶け合ってる
自分を去って
蒟蒻か寒天みたいに融合
つまり
非人情で
漱石は
理性=客観性=他者性を追求している
冷静を保つために敢えて
非人情に努めた
ことが分かってくる
理性的 客観的
ゆえに
自分がない
公正性
則天去私の境地=
自己不在の苦しみ
その自己不在=「空洞」の苦悩を😩
可愛い表現の仕方するんだな 漱石🥰
夢十夜の「第六夜」
明治時代に何故か運慶が仁王を彫っている夢
4:鳥を見てると鳥になる漱石
自我がなく空洞だから
取り替え可能の漱石の人格
バラバラ ふわふわ
何にだってなれる
なっちゃう
宮沢賢治にもこういう分裂的なとこあったけど
漱石も同様
鳥🐧を見てると鳥🐧になり(永日小品「心」
蟹🦀を見てると蟹🦀になる(「行人」)
以下
漱石の「文」の なかでも
個人的に大好きなとこかも❤️
動物好きには
漱石作品
猫🐱や鳥🐧出てきて
漱石 かわゆしってなる♡
このように
自分が
締りのない自己
客観的で
同一性そのものへの不信があるので
他者も同一性を欠如している
=
他者も纏りがない 筋も通さず
一貫性もないと思っている。
つまり他者不信(女性に象徴的)
だから
「行人」では
不倫で一緒になった浮気な妻だからこそ
信じられない
が故
弟に自分の妻と旅行に出て
妻の節操を試してみてくれ
なんてことに💔
迷える羊 stray sheep🐏(「三四郎」)
旅より帰還した弟と我妻を信じられなくなり
(当たり前)
激しい猜疑心で孤立した一郎の内的世界という迷路
5;生きてもいない死んでもいない漱石
「門」の宗助は
妻をほったらかしで宗教に逃げるも
参禅したことで却って
自らの不信心に山に迷い
「こころ」で自殺
「坑夫」で死に生き
炭鉱の地下迷路を彷徨い歩く
出口なし
迷い続ける漱石
帰り道が分からないのだ
芥川龍之介の「河童」に同様のシーンがある
なぜ来た道が分からないのか
生と死がひっくり返り in「坑夫」
生に追いつかない「遅れ」を
前後不覚に死に生きているからだ
時間の方向性も矢印もない
生と死の円環性=
出口のない
生と死の間
客観に生きている
客観に時はない
それが物の理=物理
スターンの「トリストラム」に同じ
叔父さんは死んだのに生きている
死→→生
それは「夢」?
「夢十夜」
第一夜のテーマは「死」
なのに
第三夜のテーマは「生」
なのだ
第一夜
テーマは「死」
女が百年経ったら会いに来る
つまり
自分がもう死んでいた
死してやっと会える女
第三夜
「生」
100年前に俺を殺したな
繰り返される100年というワード
人の寿命を超越する100年
とは
生と死
想起と共に急に重くなった
盲目の赤ん坊とは
100歳を超える大人のような我が子
と思ったら
我が父
子と父の反転
子を殺した父
ならぬ
父を殺した子
父殺し
生誕前
想起以前の去勢された記憶
思い出せない何か
恋慕してやまない誰か
船は女性の象徴
永遠に届かない女性への距離(第七夜)
百年経ったら=死して会える女(第一夜)
100年前(生誕=想起前)の父殺し(第三夜)
繰り返される100年というワード
生と死の
時間の反転による
過去への想起
上記 「永日小品『心』」
をもう一度 思い出すと
鳥を見た時の漱石が
この鳥は……と思った。
しかしこの鳥は……の後は
どうしても思い出せなかった
一人の女が立っていた
百年の昔からここに
人の寿命を超越する100年
漱石は
生きていないし
死んでもいない
超越する時間性のなかで
遅れを取り戻そう
思い出そうと
生と死の狭間で苦しんでいる
何に遅れてるのかも
何を忘れてるのかも
わからずに迷い続けている
宗教に逃避したかった
山に参禅に篭った
が
理性が邪魔して信じられず
宗教にも悟りを得られず
却って
山⛰️に迷い
自分の不信心に諦めもついた (「門」)
そして海🌊に来た
死ぬために。
船の上🚢
第七夜 in 「夢十夜」
星が綺麗だ
星も海もみんな神の作ったものだ
と異人が言う
どうせ死ぬのにうるさい
神を信仰するかって聞かれた
信じられたらどんなに楽か
海に飛び込んだ
が着水するまでの間に
後悔した
生と死の狭間
喪失された時間
のなかで生きている漱石
生きてもいない
死んでもいない
身体が船を離れてから着水するまでの
永遠
山でも迷い
門の後ろに戻ることも
前に進むこともできず (「門」)
ただただ
門に佇み
海でも
船と水面の間で
ただただ考え続ける漱石
両者の間
生と死
山と海
前と後
「異人のように」(夢七夜)
距離感を自分に保ち
全てを
他人事として
非人情に
扱う
理性
物かのように
6: 漱石というモノ
漱石とは
モノ
モノの理=物理に
時間は存在しない
実父は
「我楽多として」彼を取り扱ったくせに
「養父母の手前始終自分に対してにこにこしていた父」を見て「愛想をつかした。」
そして
養父には「今に何かの役に立てて遣ろうという目算」=金目当て があるだけであった。
ここで
上記 和辻哲郎の言葉が説得力を持ってくる
父が父ではない
母が母でない
醜いのは養父だけではなかった
健三は養母よりもまだ
養父といることを好んだ
何故か?
子どもは親の偽善=嘘つきを
ちゃんと見抜いている
本人はバレてないと思っているが
したふりを子どもはする。
御常と島田は実際の養父母をモデルにして
漱石が「道草」に晩年に書いた自伝である
実際の御常さん めっちゃ困ったそうな
「家には若い母と三つになる子供がいる。父はどこかへ行った。父はそれきり帰って来なかった。」(第九夜 in「夢十夜」)
養父=島田も嘘つき演技者の御常に愛想尽かし
女を作り出て行った
健三はまた父に捨てられた
我楽多として自分を扱った実父
気まぐれで計算高い養父母に愛想尽かした漱石
には
「自然」なる情愛が欠けていた
いつまでもいつまでも金をせびりに来る養父母
7: 漱石=交換可能な媒介
つまり
漱石は
金の「代理」に実父母に捨てられ
金の「媒介」として養父母に引き取られる
物のように捨てられ
金=物のため育てられる「媒介」的存在
金銭に
交換
取り返え可能な媒介的「代理物」
養父母も彼を
感情のない物品の様に扱い
成長してからも金をせびり続けた
漱石の晩年の自伝小説「道草」の
キーワードは
交換 媒介 物 取り返え可能
そして
反復
永遠のループ
漱石は
生まれてから死ぬまで
金と交換され続ける媒介としての反復
を繰り返した
ならばこそ
金へと媒介されることを
期待されている と知ってる
その
「言葉」に
誰よりも注意を払った漱石
「物」になってはいけないのだ
言葉の物ー語り性に反発して書いた作品
ローレンス・スターンの影響もあるが
捨て猫=取り替え可能な存在
「吾輩は猫である」を処女作として
カオスを描いた漱石の意図
柄谷行人が「漱石論集成」で
イヌとイスの例で説明しているが
漱石という存在は
実父母や養父母 そして親族にとって
金にさえなれば 誰でもよい存在
ネコでもイヌでも
イヌでもイスでも
金にさえなれば良い 媒介物でしかない
交換される存在
代理物
にだけはなりたくない
彼は
言葉だけは守りたかった
メディア=媒介的存在として
語らせたくなかった
言葉を生かしたかった
だから
漱石の言葉は必死に抵抗した
彼の言葉を思い出そう
シニフィアン(意味するもの)
と
シニフィエ(意味されるもの)の
恣意性
イヌ=🐶犬🐕
イス=🪑椅子💺
の間には
べつに
必然=絶対的な関係性はない
カーライル曰く それは「衣装」
それは「やがては脱ぎ捨てられてしまふ衣装」社会の制度でありルール
キリスト教コミュニティが
ヒュパティア=魔女として (前稿参照)
魔女とヒュパティアの差異性を消去した時
「身代りに誰かが死ななければならない」(「道草」) カーライルはそんなキリスト教の衣装を見ろと言ったのだ
8: 自分は自分である
言葉をも他者の裁量で
利用されるものか
ルソーの「自然に還れ」も同じ意図
(キリスト教会や王政に対して)だが
ルソーの自然と
漱石のいう自然は全く違う
言葉を操る自分のこの心だけは
自由なのだ
ローレンス・スターンも同じ心持ちで
「トリストラム・シャンディ」を書いたことだろう
正常分娩
=鉗子分娩の鉗子が
鼻を挟んだから
一家の不名誉なる鼻が出てきた
逆子に生まれて来てたら
鼻は守れた
が
鉗子が〇〇を挟んで一家断絶か
カオティックな言葉による
無意味にこそ
媒介され得ない 意味=同一性があり
意味こそは非同一的な無意味=ナン センス
「意識の流れ」小説の前衛の前衛たるこの作品に
イギリスで出会った漱石は
どんな思いだったろう
ジェイムズ・ジョイスやヴァージニア・ウルフよりも100年以上前のことなんだから
「訳はない👏洋行まですりゃ」
Fuck you 👎
初めての初めて
漱石が「道草」にはっきりとした自分を表明し
言いたかったのは
Fuck you 👎
邪魔すんなよ お前ら
道草に時間食ってる暇なんてねえんだよ
俺は交換可能なもの=媒介じゃねぇんだよ
自分は自分でしかない自分なんだ
自分は自分である
そこに誰も介入できない
「金」に交換され、持っていかれるものではないもの
彼はその自由を次の「草枕」に表現したと言えよう
漱石は
自分を信じ精一杯
頑張っていたのである
なのに周囲が
交換可能な存在=媒介=金においてのみ
彼を扱い
金をせびりに寄ってたかり
彼を彼として見ることはなかった
「こころ」の先生の叫び
言葉=金として
期待され
利用される
「道草」は金せびりの逸話で溢れている
漱石はそれを最期に
暴露して死んでいった
そして
ほんとのラストの
遺作「明暗」における
騒々しい
ドストエフスキー・カーニバルの中での
漱石の静けさ
自然主義小説家が
漱石が初めて小説を書いたと絶賛したらしいが
私は違う意味で
柄谷氏が漱石は「明暗」で変わった
その通りだと思う
漱石はもはや
ふわふわ バラバラに
振り回されない
静的なバラバラの多元性のなか生きる力強さを
身につけたように見えた
だが
これでもかと
駒のように主人公津田を動かし続けようとする
吉川夫人
=暇人の典型が
津田を
・清子のいる人生
・清子のいない人生
の間で弄び
吉川夫人に撲殺された津田の貴重な時間、人生
そして
「肝心の鳥」=清子はふいと逃げたぎり戻って来なくなった⤵️⤵️⤵️のに (「明暗」)
吉川夫人
今度は不倫の勧め
清子に会いに行けってか??
そんな余計なおせっかいするから
我々は
「明暗」を読み進め
ラスト近くで
やっと😑清子が出てきた😘と思ったら
漱石死亡😿で
欲求不満
余計なことすんな
漱石は
だけなのだ
9: 我輩は」猫「である」
シニフィアン(意味するもの)
と
シニフィエ(意味されるもの)の
恣意性=「物」語り性に抵抗
交換可能性を「文」で「不倫」を通して
弄んだ漱石
芥川龍之介が「藪の中」で
妻を寝盗った男が
妻の夫の味方として
女を憎んだのも
彼と夫の立場の交換可能性
「2本の指輪」をはめた三千代へのシニシズム
(「それから」)
漱石は漱石
という唯一性=自然
動物の世界=自然では
取り返えが不可能
しかし
必然は社会では喪失される
ヒトラーがヒトラーでない者として
トランプがトランプでない者として
人々の鬱憤や怒りが彼らを
総統や大統領の「衣装」に
相当=identical(アイデンティカル)とした
アイデンティティとは何か
ヒトラー=ヒトラー
トランプ=トランプ
真実が見えた時そのドラマは終わる
でも
動物の世界はそんな複雑じゃない
AIが交換不可能な我が家の
かけがえのない黒猫🐈⬛3匹🐈⬛🐈⬛たちの違いを
ちゃんと選分け
それぞれフォルダー📁分け
して保存してくれるが
それぞれ かけがえのない
ナツ とうふちゃん と ナナ❤️
漱石家のニャンコ達も同様
1代目ニャンコ=「猫」で有名
2代目 踏まれて短命だった可哀想な子猫
3代目
漱石が病気になれば病気になり
完治すれば完治するという
不思議な因縁で繋がっている黒猫🐈⬛ちゃん
のことを漱石は
「硝子戸の中」で愛ているが
〇〇=〇〇
自然は必然
保険に入れ 万が一購入した子が死んだら
別の子に交換できます
なんて ペットショップはいうが
この子でなければならないから…
この子が死んだら終わり🔚
金には代えられない👩
漱石もヘクトーと名付けたワンコ🐕
(「イリアッド」で
アキレウスの敵討に討たれたトロイの武将の名)
を可愛がり 亡くなった時には
白木の小さい墓標を買って来て それへ
「秋風の聞えぬ土に埋めてやりぬ」🐶
という一句を書いてやっている (「硝子戸の中)
漱石には「それ」がなかった
金のため養子に子が出されてたあの時代🥹
漱石が漱石であるというアイデンティティ
は
「関係性」から
始源のそれ
父と母との
愛し 愛される関係性の中で生まれる
漱石は漱石であり漱石でしかない
それが掘っても掘っても
「どうしても仁王は見あたらない」
自己存在の無根拠性
空な自己不在を「夢六夜」で嘆く😭漱石
その漱石が❣️
「道草」のエンディング
KISS💋で終えているのだ
「あいつ(藤尾)を仕舞に殺す😨のが一篇の主意である
うまく殺せなければ助けてやる。🙀🙀🙀
然し助かれば
いよいよ藤尾なるものは駄目な人間になる」
までいって (明治40年小宮豊隆宛書簡)
「虞美人草」を書いていた漱石が
「御父さまの仰ゃる事は何だかちっとも分りゃしないわね」 と奥さんが嫌味を言っても
黙ってママの🤱KISS💋を傍観しているのだ
いやぁ嬉かった❤️❤️❤️
漱石が反撃しなかった
し
赤ん坊を
蒟蒻だの寒天だの言って
ブツ扱いしてた漱石が🥰
10:死んだ鳥は誰?
もうお分かりだと思うが
漱石の自伝「道草」で
漱石が唯一描かなかった人が
1人いる
実のお母さんである
彼は実父 養父母を悪く言ったが
実母については決して…
そして 母の名 千枝は
「私の母だけの名前で、けっしてほかの女の名前であってはならない」
ここまで強く言い切る息子も
まぁいない‼️
かなりのマザコン
そして やはり
登場人物でも千枝なる人物は
存在しない
三角関係の「三」+「千代」 in「それから」
「彼岸過迄」の 「千代子」だけ
ここに「漱石」の「手に余る問題」がある
実父母により養子にやられた古道具商により
道具屋の「我楽多」といっしょに、
「小さい笊の中に入れられて、毎晩四谷の大通りの夜店に」
籠の鳥 かのように
「曝されていた」漱石
エレファント・マンか?
なのに😿母だけを責めない漱石
でも
姉により一旦 夜店より引き取られ
自宅に連れ戻された漱石は
泣き続けていたそうだが
すぐにまた他所にやられたという
(夏目漱石 「硝子戸の中」)
そして
籠の鳥が死ぬ
漱石は
「どうしても思い出せなかった」一人の女=鳥を追う
「この鳥は……と思った。
しかしこの鳥はの後は
どうしても思い出せなかった」
百年の昔 自分の生誕前から
自分を待っており
そして
死後に会える鳥=女
その鳥を追いかけると
漱石も
「鳥の心持に変化し」
「鳥のようにどこまでも跟いて行った。」
(夏目漱石「永日小品「心」)
「夢十夜」にもかぶるイメージ
生死を超えて自分を思い続けてくれる女
だから漱石にとって
死とは
「生よりは楽なもの」
「人間として達し得る最上至高の状態」という
待ち侘びる期待
決して追いつかない船🚢
死して会える女(夢十夜)
千枝 or 千代
母?誰?
文鳥の羽音に過ぎないのだが🐧
鳥を見て 女を想い
羽音を聞き 女が着物の裾を捌いている音に聞く
漱石
「夢十夜」
「永日小品「心」
「文鳥」で
表れる
思い出せない女性=鳥
VS
気紛れに男を捨てる魔性の女
彼の全作品に共通する
徹底した女性不信のイメージの始原はどこから来るのであろうか
T.S.Eliotが シェイクスピア「ハムレット」について
「母親によって喚起されたものでありながら
その母親がそれに匹敵しないで…
彼の嫌悪は母親に向けられるだけでは
どうにもならない…彼には理解できない感情」と呼んだものではなかろうか
記憶は後ろ向きに変えられてしまうから 生きるために死してみた夢😴なのでしょう
今 脳裏にふとよぎった
もしも
私も
親に幼少期に捨てられていたら
その親は
当時の
若いままの姿で永遠に憧憬され
死して会えることだけを楽しみに
待たれる存在となるのかもしれない
そしてその時
お話しがしたい
「僕を捨てたんじゃないよね お母さん」
「硝子戸の中」で一生懸命 母を良く描こうとする漱石の声を聞きながらそう思った