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漱石の「道草」

1: 行間にいる漱石

漱石の留学先 イギリス🇬🇧
今期のDiorはスコットランド🏴󠁧󠁢󠁳󠁣󠁴󠁿がテーマ
暗号を駆使してエリザベス女王を暗殺しようと試みた「とされ」断頭台に消えた悲劇の女王メアリー・スチュアートが遺した刺繍処刑日に身につけていたベルベットのドレスなど苦境においても美を忘れない強い女がテーマ 大阪店リニューアルオープン初日 日本に一点しか入らない商品などもあるということで早速行ってきた。次はメアリー・スチュアートの伝記をお金が入ったら読みたいと思ってたからだ。処刑日に来てたベルベットドレスを着る女 漱石なら癇癪を起こすだろうが、衣装とは記号操作であるとする漱石の大好きなスコットランド文学者トーマス・カーライルも喜ぶんではなかろうかetc思いながらライティング煌めく御堂筋に「道草」❤︎  
お向かいにはトランプ再選で株価⤴️のテスラ🚘タイムリー⏰な道草もあり❓漱石から逃れられて気分転換となった

だって
漱石
もう読み進めたくない
辞めたい しんどい
ってなるんだもん
でも
わからない
から
数作品で 終われない
読み続けねばならない
ちょっと休憩が必要だよ
漱石って
でも
何故こんなに
しんどいのか
それは
漱石が しんどかったから🥲
どういう種類の経験をした結果
ああなんちゃうんだろう?
客観的相関物」が欠けているから (エリオット)
漱石自身にも
自身が
分からなかったはず
つまり
漱石は
行間にいる」のだ
T.S.エリオットがシェイクスピア
に言ったのに同じだ   
(柄谷行人 漱石論集成)
漱石も

彼の手に余る問題を扱おうとしたと結論するほかない…彼がどういう種類の経験をした結果、表現することなどできない恐ろしいことに表現を与えることを望んだか、われわれには知るすべがない

エリオット「ハムレット」

つまり
漱石執筆作品を
時系列にトータル的に読むしかない

初期作
吾輩は猫である
坊つちやん
草枕

野分
虞美人草
坑夫
夢十夜

前期三部作
三四郎
それから


後期三部作
彼岸過迄
行人
こゝろ

晩年
道草
明暗

の順に読み並べてみると
見えてくる 漱石が。

2: 「文章」でなく「文」を書く漱石

漱石の第一印象としては
堂々巡りの円環
出口がない
息が詰まる

第二
座禅しているが悟れない
「毛穴から外へ吹き出やう出やうと焦るけれども、何処も一面に塞がって、丸で出口がない様な残刻極まる状態」

夏目漱石「夢十夜」

だから
同じ場所で足踏み続ける
筋のない「反復」

筋とは何だ。世の中は筋のないものだ。筋のないもののうちに筋を立てて見たって始まらないじゃないか。

夏目漱石「写生文」

「坊っちゃん」にはまだ「客観的な外界を感じ」「健康な倫理感覚」があったのに💦

自分の世界と現実の世界は、一つ平面に並んでおりながら、どこも接触していない。そうして現実の世界は、かように動揺して、自分を置き去りにして行ってしまう。はなはだ不安である。

夏目漱石「三四郎」

」や「草枕」などの初期作品には
特に
筋という筋はないし
漱石は小説ではなく
を書いている(「エクリチュール」 in漱石論集成)
と柄谷行人氏はいう
前に進まない「反小説」
という定義がピッタリかも
(柄谷行人 「漱石の文」in漱石論集成)

漱石を漱石たらしめたのは…彼が英文学においてロマン派以前の小説に通暁していたことだからである…とりわけ、ローレンス・スターンの『トリストラム・シャンディ』

柄谷行人 漱石試論II in漱石論集成

トーマス・カーライルの「衣装哲学」の影響 を受けているとも言われている
(柄谷行人「漱石の文」in漱石論集成)

スターンはアイルランドの牧師+小説家
カーライルはスコットランドの文学者
アウトサイダーだ👊
草枕には「非人情」という言葉が多発する

小説も非人情で読むから、筋なんかどうでもいいんです。こうして、御籤を引くように、ぱっと開けて、開いた所を、漫然と読んでるのが面白いんです

夏目漱石「草枕」

3: 蒟蒻みたいな漱石

言葉の過剰なる戯れが筋を持つことに反発 
現実を無化させ 筋をもたないこと
に徹している
何故か?
自分がないから

自己の
同一性が欠如してるし自分もない
どうあっても他人の事としか受け取れない。

夏目漱石「坑夫」

自他の境界があいまい
それは
「手が蒟蒻のように弱って」など
          (第十夜in夏目漱石「夢十夜」)
蒟蒻寒天という言葉で表されるように
自己がふにゃふにゃ
産婆の到着が間に合わず
赤ん坊を取り上げる「道草」の健三

その或寒天のようにぷりぷりしていた。そうして輪廓からいっても恰好の判然しない何かの塊に過ぎなかった。彼は気味の悪い感じを彼の全身に伝えるこの塊を軽く指頭で撫でて見た。塊りは動きもしなければ泣きもしなかった。ただ撫でるたんびにぷりぷりした寒天のようなものが剥げ落ちるように思えた。もし強く抑えたり持ったりすれば、全体がきっと崩れてしまうに違ないと彼は考えた…彼は忽ち出産の用意が戸棚の中に入れてあるといった細君の言葉を思い出した。そうしてすぐ自分の後部にある唐紙を開けた。彼は其所から多量の綿を引き摺り出した。脱脂綿という名さえ知らなかった彼は、それをむやみに千切って、柔かい塊の上に載せた。」
…赤ん坊はぐたぐたしていた。骨などはどこにあるかまるで分らなかった。

夏目漱石「道草」

でもその
クールさ
非人情性
どこから生まれたのだろうか
漱石の世界は
ロマン主義 (人情)と
徹底した客観化=自然主義 (不人情=あるがまま)
のあいだ
本人曰く
非人情」の世界だそうな
和辻哲郎によると

徳義的脊骨のあるものには四周からうるさい事、苦しい事が集まって来る。先生はそのために絶えず癇癪を起こさなければならなかった。しかも先生はその敏感と情熱とのために、さらに内からその苦しみを強くしなければならなかった。先生の禅情はこの痛苦の対策として現われた傾向である。  先生の超脱の要求は(非人情への努力は)、痛苦の過多に苦しむ者のみが解し得る心持ちである。我々は非人情を呼ぶ声の裏にあふれ過ぎる人情のある事を忘れてはならない。

和辻哲郎 「夏目先生の追憶 」

つまり
人情ある優しい人なのである
坑夫」を読むと
自分と尊敬する安さんの境界が曖昧
さすが
非ー人情
自分=安さんになってる
溶け合ってる
自分を去って
蒟蒻寒天みたいに融合
つまり
非人情で
漱石は
理性=客観性=他者性を追求している
冷静を保つために敢えて
非人情に努めた
ことが分かってくる

安さんの言葉はこれで終った。坑夫の数は一万人と聞いていた。その一万人はことごとく理非人情を解しない畜類の発達した化物とのみ思い詰めたこの時、この人に逢ったのは全くの小説である。

夏目漱石「坑夫」

理性的 客観的
ゆえに
自分がない
公正

超脱の要求は現実よりの逃避ではなくて現実の征服を目ざしている。現実の外に夢を築こうとするのではなくて現実の底に徹する力強いたじろがない態度を獲得しようとするのである。先生の人格が昇って行く道はここにあった。公正の情熱によって「私」を去ろうとする努力の傍には、超脱の要求によって「天」に即こうとする熱望があるのであった。

和辻哲郎 「夏目先生の追憶 」

則天去私の境地=
自己不在の苦しみ
その自己不在=「空洞」の苦悩を😩
可愛い表現の仕方するんだな 漱石🥰
夢十夜の「第六夜」
明治時代に何故か運慶が仁王を彫っている夢

「よくああ無造作に鑿を使って、思うような眉や鼻ができるものだな」
と自分はあんまり感心したから独言のように言った。
するとさっきの若い男が
「なに、あれは眉や鼻を鑿で作るんじゃない。あの通りの眉や鼻が木の中に埋っているのを、鑿と槌の力で掘り出すまでだ。まるで土の中から石を掘り出すようなものだからけっして間違うはずはない」と云った。  自分はこの時始めて彫刻とはそんなものかと思い出した。はたしてそうなら誰にでもできる事だと思い出した。」
「自分は一番大きいのを選んで、勢いよく彫り始めて見たが、不幸にして、仁王は見当らなかった。その次のにも運悪く掘り当てる事ができなかった。三番目のにも仁王はいなかった。

夏目漱石「第六夜」

4:鳥を見てると鳥になる漱石

自我がなく空洞だから
取り替え可能の漱石の人格
バラバラ ふわふわ
何にだってなれる
なっちゃう
宮沢賢治にもこういう分裂的なとこあったけど
漱石も同様
鳥🐧を見てると鳥🐧になり(永日小品「心」
蟹🦀を見てると蟹🦀になる(「行人」)
以下
漱石の「文」の なかでも
個人的に大好きなとこかも❤️
動物好きには 
漱石作品
猫🐱や鳥🐧出てきて
漱石 かわゆしってなる♡

自分は半ば無意識に右手を美しい鳥の方に出した。鳥は柔かな翼と、華奢な足と、漣の打つ胸のすべてを挙げて、その運命を自分に託するもののごとく向うからわが手の中に、安らかに飛び移った。自分はその時丸味のある頭を上から眺めて、この鳥は……と思った。しかしこの鳥は……の後はどうしても思い出せなかった……一人の女が立っていた…たった一つ自分のために作り上げられた顔である。百年の昔からここに立って、眼も鼻も口もひとしく自分を待っていた顔である。百年の後まで自分を従えてどこまでも行く顔である…自分に後を跟けて来いと云う。自分は身を穿めるようにして、露次の中に這入った…その時自分の頭は突然先刻の鳥の心持に変化した。そうして女に尾いて、すぐ右へ曲った。右へ曲ると、前よりも長い露次が、細く薄暗く、ずっと続いている。自分は女の黙って思惟するままに、この細く薄暗く、しかもずっと続いている露次の中を鳥のようにどこまでも跟いて行った。」

夏目漱石「永日小品「心」

このように
自分が
締りのない自己
客観的で
同一性そのものへの不信があるので
他者も同一性を欠如している

他者も纏りがない 筋も通さず
一貫性もないと思っている。
つまり他者不信(女性に象徴的)

自分だけがどうあっても纏まらなく出来上ってるから、他人も自分同様締りのない人間に違ないと早合点をしているのかも知れない。

夏目漱石「坑夫」

だから
行人」では
不倫で一緒になった浮気な妻だからこそ
信じられない
が故
弟に自分の妻と旅行に出て
妻の節操を試してみてくれ
なんてことに💔
迷える羊 stray sheep🐏(「三四郎」)
旅より帰還した弟と我妻を信じられなくなり
(当たり前)
激しい猜疑心で孤立した一郎の内的世界という迷路

5;生きてもいない死んでもいない漱石

」の宗助は
妻をほったらかしで宗教に逃げるも
参禅したことで却って
自らの不信心に迷い
こころ」で自殺
坑夫」で死に生き
炭鉱の地下迷路を彷徨い歩く
出口なし
迷い続ける漱石

カンテラは一つになった。気はますます焦慮って来た。けれどもなかなか出ない。ただ道はどこまでもある。右にも左にもある。自分は右にも這入った、また左にも這入った、また真直にも歩いて見た。しかし出られない

夏目漱石「坑夫」

帰り道が分からないのだ
芥川龍之介の「河童」に同様のシーンがある

「出て行かれる路を教へてください」
「出て行かれる路は一つしかない」
「と云うのは」
「それはお前さんのここへ来た道だ」
「その路が生憎見つからないのです」

芥川龍之介「河童」

なぜ来た道が分からないのか
生と死がひっくり返り  in「坑夫
生に追いつかない「遅れ」を
前後不覚に死に生きているからだ
時間の方向性も矢印もない
生と死の円環性
出口のない
生と死の間
客観
に生きている
客観に時はない
それが物の理=物理
スターンの「トリストラム」に同じ
叔父さんは死んだのに生きている
死→→生
それは「夢」?
夢十夜」
第一夜のテーマは「
なのに
第三夜のテーマは「
なのだ

第一夜 
テーマは「
女が百年経ったら会いに来る
つまり
自分がもう死んでいた
死してやっと会える女

「死は僕の勝利だ」

夏目漱石 明治44年 木曜会での発言 in柄谷行人「漱石論集成」

第三夜 
「生」

100年前に俺を殺したな
繰り返される100年というワード
人の寿命を超越する100年
とは
生と死
想起と共に急に重くなった
盲目の赤ん坊とは
100歳を超える大人のような我が
と思ったら
我が
子と父の反転

子を殺した父
ならぬ
父を殺した子
父殺し
生誕前
想起以前の去勢された記憶
思い出せない何か
恋慕してやまない誰か

どこへ行くんだか分らない。ただ波の底から焼火箸のような太陽が出る。それが高い帆柱の真上まで来てしばらく挂っているかと思うと、いつの間にか大きなを追い越して、先へ行ってしまう。そうして、しまいには焼火箸のようにじゅっといってまた波の底に沈んで行く。そのたんびに蒼い波が遠くの向うで、蘇枋の色に沸き返る。すると船は凄じい音を立ててその跡を追かけて行く。けれども決して追つかない

夏目漱石 第七夜  in 「夢十夜」

女性の象徴
永遠に届かない女性への距離(第七夜)
百年経ったら=死して会える女(第一夜)
100年前(生誕=想起前)の父殺し(第三夜)
繰り返される100年というワード
生と死の
時間の反転による
過去への想起


上記 「永日小品『心』」
をもう一度 思い出すと

鳥を見た時の漱石が
この鳥は……と思った。
しかしこの鳥は……の後は
どうしても思い出せなかった
一人の女が立っていた
百年の昔からここに

人の寿命を超越する100年
漱石は
生きていないし
死んでもいない
超越する時間性
のなかで
遅れを取り戻そう
思い出そうと
生と死の狭間で苦しんでいる
何に遅れてるのかも
何を忘れてるのかも
わからずに迷い続けている

宗教に逃避したかった
に参禅に篭った

理性が邪魔して信じられず
宗教にも悟りを得られず 
却って
⛰️に迷い
自分の不信心に諦めもついた (「門」)
そして🌊に来た
死ぬために。

船の上🚢
第七夜  in 「夢十夜
星が綺麗だ
星も海もみんなの作ったものだ
異人が言う
どうせ死ぬのにうるさい
神を信仰するかって聞かれた
信じられたらどんなに楽か
海に飛び込んだ
が着水するまでの間に
後悔した

異人が来て、天文学を知ってるかと尋ねた。自分はつまらないから死のうとさえ思っている。天文学などを知る必要がない。黙っていた。するとその異人が金牛宮の頂にある七星の話をして聞かせた。そうして星も海もみんな神の作ったものだと云った。最後に自分に神を信仰するかと尋ねた。自分は空を見て黙っていた… 自分はますますつまらなくなった。とうとう死ぬ事に決心した。それである晩、あたりに人のいない時分、思い切って海の中へ飛び込んだ。ところが――自分の足が甲板を離れて、船と縁が切れたその刹那に、急に命が惜しくなった。心の底からよせばよかったと思った。けれども、もう遅い。自分は厭でも応でも海の中へ這入らなければならない。ただ大変高くできていた船と見えて、身体は船を離れたけれども、足は容易に水に着かない。しかし捕まえるものがないから、しだいしだいに水に近づいて来る。いくら足を縮めても近づいて来る。水の色は黒かった。  そのうち船は例の通り黒い煙を吐いて、通り過ぎてしまった。自分はどこへ行くんだか判らない船でも、やっぱり乗っている方がよかったと始めて悟りながら、しかもその悟りを利用する事ができずに、無限の後悔と恐怖とを抱いて黒い波の方へ静かに落ちて行った。」

夏目漱石 第七夜 in夢十夜

生と死の狭間
喪失
された時間
のなかで生きている漱石
生きてもいない
死んでもいない
身体がを離れてから着するまでの
永遠

山でも迷い
門の後ろに戻ることも
に進むこともできず (「」)
ただただ
門に佇み
海でも
水面の間で
ただただ考え続ける漱石 

健三はにも住めなかった。にもいられなかった。両方から突き返されて、両方の間をまごまごしていた。

夏目漱石「道草」

両者の間
生と死
山と海
前と後
異人のように」(夢七夜)
距離感を自分に保ち
全てを
他人事
として
非人情

扱う
理性
かのように

6: 漱石というモノ

実父から見ても養父から見ても、彼は人間ではなかった。むしろ物品であった。

夏目漱石「道草」

漱石とは
モノ
モノの理=物理に
時間は存在しない

実家の父に取っての健三は、小さな一個の邪魔物

夏目漱石「道草」

実父は
我楽多として」彼を取り扱ったくせに
養父母の手前始終自分に対してにこにこしていた父」を見て「愛想をつかした。」
そして
養父には「今に何かの役に立てて遣ろうという目算」=目当て があるだけであった。
ここで
上記 和辻哲郎の言葉が説得力を持ってくる
父が父ではない
母が母でない 
醜いのは養父だけではなかった
健三は養母よりもまだ
養父といることを好んだ
何故か?
子どもは親の偽善=嘘つきを
ちゃんと見抜いている
本人はバレてないと思っているが

彼の自然不自然らしく見える彼の態度を倫理的に認可

夏目漱石「道草」

したふりを子どもはする。

自分の人格を会釈なく露わして顧り見ない彼女は、十にも足りないわが養い子から、愛想を尽かされて毫も気が付かずにいた。

夏目漱石「道草」

御常と島田は実際の養父母をモデルにして
漱石が「道草」に晩年に書いた自伝である
実際の御常さん めっちゃ困ったそうな

御常は非常にを吐く事の巧い女であった。それからどんな場合でも、自分に利益があるとさえ見れば、すぐ涙を流す事の出来る重宝な女であった。健三をほんの小供だと思って気を許していた彼女は、その裏面をすっかり彼に曝露して自から知らなかった。  或日一人の客と相対して坐っていた御常は、その席で話題に上った甲という女を、傍で聴いていても聴きづらいほど罵った、ところがその客が帰ったあとで、甲がまた偶然彼女を訪ねて来た。すると御常は甲に向って、そらぞらしい御世辞を使い始めた。遂に、今誰さんとあなたの事を大変賞めていた所だというような不必要な嘘まで吐いた。健三は腹を立てた。「あんな嘘を吐いてらあ」 彼は一徹な小供の正直をそのまま甲の前に披瀝した。甲の帰ったあとで御常は大変に怒った。「御前と一所にいると顔から火の出るような思をしなくっちゃならない」  健三は御常の顔から早く火が出れば好い位に感じた。  彼の胸の底には彼女を忌み嫌う心が我知らず常にどこかに働らいていた。いくら御常から可愛がられても、それに酬いるだけの情合がこっちに出て来得ないような醜いものを、彼女は彼女の人格の中に蔵していたのである。

夏目漱石「道草」

「家には若い母と三つになる子供がいる。父はどこかへ行った。父はそれきり帰って来なかった。」(第九夜 in「夢十夜」)

養父=島田も嘘つき演技者の御常に愛想尽かし
女を作り出て行った
健三はまた父に捨てられた
我楽多として自分を扱った実父
気まぐれで計算高い養父母に愛想尽かした漱石
には
「自然」なる情愛が欠けていた
いつまでもいつまでも金をせびりに来る養父母

「本というものは実に有難いもので、一つ作って置くとそれが何時までも売れるんですからね」
……
「こちらの先生も一つ御儲けになったら如何です」  

夏目漱石「道草」

7: 漱石=交換可能な媒介

つまり
漱石は
金の「代理」に実父母に捨てられ
金の「媒介」として養父母に引き取られる
物のように捨てられ
金=物のため育てられる「媒介」的存在
金銭に
交換 
取り返え可能な媒介的「代理物」
養父母も彼を
感情のない物品の様に扱い
成長してからも金をせびり続けた
漱石の晩年の自伝小説「道草」の
キーワードは
交換 媒介 物 取り返え可能 
そして
反復
永遠のループ
漱石は
生まれてから死ぬまで
金と交換され続ける媒介としての反復
を繰り返した

世の中に片付くなんてものは殆んどありゃしない。一遍起った事は何時までも続くのさ。ただ色々な形に変るから他にも自分にも解らなくなるだけの事さ

夏目漱石「道草」

ならばこそ
金へと媒介されることを
期待されている と知ってる
その
言葉」に
誰よりも注意を払った漱石
」になってはいけないのだ
言葉の物ー語り性に反発して書いた作品
ローレンス・スターンの影響もあるが
捨て猫=取り替え可能な存在
吾輩は猫である」を処女作として
カオスを描いた漱石の意図

柄谷行人が「漱石論集成」で
イヌとイスの例で説明しているが
漱石という存在は
実父母や養父母 そして親族にとって
金にさえなれば 誰でもよい存在
ネコでもイヌでも
イヌでもイスでも
金にさえなれば良い 媒介物でしかない
交換される存在
代理物
にだけはなりたくない
彼は
言葉だけは守りたかった
メディア=媒介的存在として
語らせたくなかった
言葉を生かしたかった
だから
漱石の言葉は必死に抵抗した
彼の言葉を思い出そう

ただ自分らしいものが書きたいだけで…
ただ自分は自分であるという信念を持っている。

夏目漱石 「明治四十五年一月此作(彼岸過迄)を朝日新聞に公けにしたる時の緒言」

シニフィアン(意味するもの)

シニフィエ(意味されるもの)
恣意性
イヌ=🐶犬🐕
イス=🪑椅子💺
の間には
べつに
必然=絶対的な関係性はない
カーライル曰く それは「衣装」

物質はただ精神的にのみ存在する。それも何かの理念を象徴するために

トーマス・カーライル「衣装哲学」

それは「やがては脱ぎ捨てられてしまふ衣装」社会の制度でありルール
キリスト教コミュニティが
ヒュパティア=魔女として (前稿参照)
魔女とヒュパティアの差異性を消去した時
身代りに誰かが死ななければならない」(「道草」) カーライルはそんなキリスト教の衣装を見ろと言ったのだ

8: 自分は自分である

言葉をも他者の裁量で
利用されるものか
ルソーの「自然に還れ」も同じ意図
(キリスト教会や王政に対して)だが
ルソーの自然と
漱石のいう自然は全く違う
言葉を操る自分のこの心だけは
自由なのだ
ローレンス・スターンも同じ心持ちで
トリストラム・シャンディ」を書いたことだろう
正常分娩
=鉗子分娩の鉗子が
鼻を挟んだから
一家の不名誉なる鼻が出てきた
逆子に生まれて来てたら
鼻は守れた

鉗子が〇〇を挟んで一家断絶か
カオティックな言葉による
無意味にこそ
媒介され得ない 意味=同一性
があり
意味こそは非同一的な無意味=ナン センス
意識の流れ」小説の前衛の前衛たるこの作品に
イギリスで出会った漱石は
どんな思いだったろう
ジェイムズ・ジョイスやヴァージニア・ウルフよりも100年以上前のことなんだから

ええ儲けたいものですね」
「なに訳はないんです。洋行まですりゃ」

夏目漱石「道草」

「訳はない👏洋行まですりゃ」
Fuck you  👎
初めての初めて
漱石が「道草」にはっきりとした自分を表明し
言いたかったのは
Fuck you  👎
邪魔すんなよ お前ら
道草に時間食ってる暇なんてねえんだよ
俺は交換可能なもの=媒介じゃねぇんだよ

「御前は必竟何をしに世の中に生れて来たのだ」  
彼の頭のどこかでこういう質問を彼に掛けるものがあった。
彼はそれに答えたくなかった。
なるべく返事を避けようとした。
するとその声がなお彼を追窮し始めた。
何遍でも同じ事を繰り返してやめなかった。
彼は最後に叫んだ。「分らない」  
その声は忽ちせせら笑った。
分らないのじゃあるまい。分っていても、其所へ行けないのだろう。途中で引懸っているのだろう」
「己のせいじゃない。己のせいじゃない」

夏目漱石「道草」

自分は自分でしかない自分なんだ
自分は自分である
そこに誰も介入できない
「金」に交換され、持っていかれるものではないもの
彼はその自由を次の「草枕」に表現したと言えよう

彼は家へ帰って衣服を着換えると、すぐ自分の書斎へ這入った。彼は始終その六畳敷の狭い畳の上に自分のする事が山のように積んであるような気持でいるのである… 自然の勢い彼は社交を避けなければならなかった。人間をも避けなければならなかった。彼の頭と活字との交渉が複雑になればなるほど、人としての彼は孤独に陥らなければならなかった。彼は朧気にその淋しさを感ずる場合さえあった。けれども一方ではまた心の底に異様の熱塊があるという自信を持っていた。

夏目漱石「道草」

漱石は
自分を信じ精一杯
頑張っていたのである
なのに周囲が
交換可能な存在=媒介=金においてのみ
彼を扱い
金をせびりに寄ってたかり
彼を彼として見ることはなかった
「こころ」の先生の叫び

たった一人で好いから、他を信用して死にたいと思っている。あなたはそのたった一人になれますか。なってくれますか。あなたははらの底から真面目ですか」

夏目漱石「こころ」

言葉=金として
期待され
利用される
道草」は金せびりの逸話で溢れている
漱石はそれを最期に
暴露して死んでいった
そして
ほんとのラストの
遺作「明暗」における
騒々しい
ドストエフスキー・カーニバルの中での
漱石の静けさ
自然主義小説家が
漱石が初めて小説を書いたと絶賛したらしいが
私は違う意味で
柄谷氏が漱石は「明暗」で変わった
その通りだと思う
漱石はもはや
ふわふわ バラバラに
振り回されない
静的なバラバラの多元性のなか生きる力強さを
身につけたように見えた
だが
これでもかと
駒のように主人公津田を動かし続けようとする
吉川夫人
暇人の典型が
津田を
・清子のいる人生 
・清子のいない人生
の間で弄び
吉川夫人に撲殺された津田の貴重な時間、人生

他人にはどうしてそんながあるのだろう

夏目漱石「道草」

そして
肝心の鳥」=清子はふいと逃げたぎり戻って来なくなった⤵️⤵️⤵️のに (「明暗」)
吉川夫人
今度は不倫の勧め
清子に会いに行けってか??
そんな余計なおせっかいするから
我々は
「明暗」を読み進め
ラスト近くで
やっと😑清子が出てきた😘と思ったら
漱石死亡😿で
欲求不満
余計なことすんな
漱石は

彼は自分の読みたいものを読んだり、書きたい事を書いたり、考えたい問題を考えたりしたかった

夏目漱石「道草」

だけなのだ

9: 我輩は」猫「である」

シニフィアン(意味するもの)

シニフィエ(意味されるもの)の
恣意性=「物」語り性に抵抗
交換可能性を「文」で「不倫」を通して
弄んだ漱石
芥川龍之介が「藪の中」で
妻を寝盗った男が
妻の夫の味方として
女を憎んだのも
彼と夫の立場の交換可能性
「2本の指輪
」をはめた三千代へのシニシズム
              (「それから」)
漱石は漱石
という唯一性=自然
動物の世界=自然では
取り返えが不可能
しかし
必然社会では喪失される
ヒトラーがヒトラーでない者として
トランプがトランプでない者として
人々の鬱憤や怒りが彼らを
総統や大統領の「衣装」に
相当=identical(アイデンティカル)とした
アイデンティティとは何か

ヒトラー=ヒトラー
トランプ=トランプ
真実が見えた時そのドラマは終わる
でも
動物の世界はそんな複雑じゃない
AI交換不可能な我が家の
かけがえのない黒猫🐈‍⬛3匹🐈‍⬛🐈‍⬛たちの違いを
ちゃんと選分け
それぞれフォルダー📁分け
して保存してくれるが

それぞれ かけがえのない
ナツ とうふちゃん と ナナ❤️
漱石家のニャンコ達も同様
1代目ニャンコ=「猫」で有名
2代目 踏まれて短命だった可哀想な子猫
3代目 
漱石が病気になれば病気になり
完治すれば完治するという
不思議な因縁で繋がっている黒猫🐈‍⬛ちゃん
のことを漱石は
硝子戸の中」で愛ているが
〇〇=〇〇 
自然は必然
保険に入れ 万が一購入した子が死んだら
別の子に交換できます
なんて ペットショップはいうが
この子でなければならないから…
この子が死んだら終わり🔚
金には代えられない👩
漱石もヘクトーと名付けたワンコ🐕
(「イリアッド」で
アキレウスの敵討に討たれたトロイの武将の名)
を可愛がり 亡くなった時には
白木の小さい墓標を買って来て それへ
「秋風の聞えぬ土に埋めてやりぬ」🐶
という一句を書いてやっている (「硝子戸の中)

漱石には「それ」がなかった
金のため養子に子が出されてたあの時代🥹
漱石が漱石であるというアイデンティティ

関係性」から
始源のそれ
父と母との
愛し 愛される
関係性の中で生まれる
漱石は漱石であり漱石でしかない
それが掘っても掘っても
「どうしても仁王は見あたらない」
自己存在の無根拠性
空な自己不在を「夢六夜」で嘆く😭漱石
その漱石が❣️
道草」のエンディング
KISS💋で終えているのだ

細君は黙って赤ん坊を抱き上げた。「おお好い子だ好い子だ。御父さまの仰ゃる事は何だかちっとも分りゃしないわね」  細君はこういいいい、幾度か赤い頬に接吻した。

夏目漱石「道草」

「あいつ(藤尾)を仕舞に殺す😨のが一篇の主意である
うまく殺せなければ助けてやる。🙀🙀🙀
然し助かれば
いよいよ藤尾なるものは駄目な人間になる」
までいって (明治40年小宮豊隆宛書簡)
虞美人草」を書いていた漱石が
「御父さまの仰ゃる事は何だかちっとも分りゃしないわね」  と奥さんが嫌味を言っても
黙ってママの🤱KISS💋を傍観しているのだ
いやぁ嬉かった❤️❤️❤️
漱石が反撃しなかった

赤ん坊を
蒟蒻だの寒天だの言って
ブツ扱いしてた漱石が🥰

10:死んだ鳥は誰?

もうお分かりだと思うが
漱石の自伝「道草」で
漱石が唯一描かなかった人が
1人いる
実のお母さんである

母の名は千枝といった…
私にはそれがただ私の母だけの名前で、けっしてほかの女の名前であってはならないような気がする。幸いに私はまだ母以外の千枝という女に出会った事がない。

夏目漱石「硝子戸の中」

彼は実父 養父母を悪く言ったが
実母については決して…
そして 母の名 千枝
「私の母だけの名前で、けっしてほかの女の名前であってはならない」
ここまで強く言い切る息子も
まぁいない‼️
かなりのマザコン
そして やはり
登場人物でも千枝なる人物は
存在しない
三角関係の「三」+「千代」 in「それから」
彼岸過迄」の 「千代子」だけ
ここに「漱石」の「手に余る問題」がある

私の母はすべて私にとってである。

夏目漱石「硝子戸の中」

全部夢なのか、または半分だけ本当なのか、今でも疑っている

夏目漱石「硝子戸の中」

実父母により養子にやられた古道具商により
道具屋の「我楽多」といっしょに、
「小さい笊の中に入れられて、毎晩四谷の大通りの夜店に」
籠の鳥 かのように
曝されていた」漱石
エレファント・マンか?
なのに😿母だけを責めない漱石
でも
姉により一旦 夜店より引き取られ
自宅に連れ戻された漱石は
泣き続けていたそうだが
すぐにまた他所にやられたという
(夏目漱石 「硝子戸の中」)
そして
籠の鳥が死ぬ

千代千代と鳴く」文鳥が「自分を見た」
その時
ある「の事を思い出した。」 
文鳥は籠の中で死んでいた

 夏目漱石「文鳥」

漱石は
「どうしても思い出せなかった」一人の女を追う
この鳥は……と思った。
しかしこの鳥はの後は
どうしても思い出せなかった」
百年の昔 自分の生誕前から
自分を待っており
そして
死後に会える鳥=女
その鳥を追いかけると
漱石も
の心持に変化し」
のようにどこまでも跟いて行った。」
        (夏目漱石「永日小品「心」)
夢十夜」にもかぶるイメージ
生死を超えて自分を思い続けてくれる女
だから漱石にとって
とは
生よりは楽なもの」
「人間として達し得る最上至高の状態」という
待ち侘びる期待

決して追いつかない🚢
死して会える女(夢十夜)
千枝 or 千代
母?誰?

縁側でさらさら、さらさら云う。女が長い衣の裾を捌いているようにも受取られるが、ただの女のそれとしては、あまりに…」

夏目漱石「文鳥

文鳥の羽音に過ぎないのだが🐧

私は錦絵に描いた御殿女中の羽織っているような華美な総模様の着物を宅の蔵の中で見た事がある。紅絹裏を付けたその着物の表には、桜だか梅だかが一面に染め出されて、ところどころに金糸や銀糸の刺繍も交っていた。これは恐らく当時の裲襠とかいうものなのだろう。しかし母がそれを打ち掛けた姿は、今想像してもまるで眼に浮かばない。私の知っている母は、常に大きな老眼鏡をかけた御婆さんであったから…若い時分の母の面影を濃かに宿しているように思われてならない。」

夏目漱石「硝子戸の中」

を見て を想い
羽音を聞き 女が着物の裾を捌いている音に聞く
漱石

夢十夜」
「永日小品「心」
「文鳥
」で
表れる 
思い出せない女性=鳥
VS
気紛れに男を捨てる魔性の女
彼の全作品に共通する
徹底した女性不信のイメージの始原はどこから来るのであろうか 

聖オーガスチンの懺悔、ルソーの懺悔、オピアムイーターの懺悔、――それをいくら辿って行っても、本当の事実は人間の力で叙述できるはずがないと誰かが云った事がある。

夏目漱石「硝子戸の中」

T.S.Eliotが シェイクスピア「ハムレット」について
「母親によって喚起されたものでありながら
その母親がそれに匹敵しないで…
彼の嫌悪は母親に向けられるだけでは
どうにもならない…彼には理解できない感情」と呼んだものではなかろうか 

御母さんは何にも云わないけれども、どこかに怖いところがある」 

夏目漱石「硝子戸の中」

記憶は後ろ向きに変えられてしまうから 生きるために死してみた夢😴なのでしょう

私は再び母に会って、万事をことごとく口ずから訊いて見たい。

夏目漱石「硝子戸の中」

今 脳裏にふとよぎった
もしも
私も
親に幼少期に捨てられていたら
その親は
当時の
若いままの姿で永遠に憧憬され 
死して会えることだけを楽しみに
待たれる存在となるのかもしれない
そしてその時
お話しがしたい
「僕を捨てたんじゃないよね お母さん」
「硝子戸の中」で一生懸命 母を良く描こうとする漱石の声を聞きながらそう思った

しかしどうしても私は実際大きな声を出して母に救を求め、母はまた実際の姿を現わして私に慰藉の言葉を与えてくれたとしか考えられない。

夏目漱石「硝子戸の中」





















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