![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/162996954/rectangle_large_type_2_0ad7e1cc0c07a72f4d9d3fa77b79ebe6.png?width=1200)
女の足に踏まれる畳になりたい谷崎潤一郎作品総括:メスがオスに乗る谷崎とオスがメスから奪う川端康成〜その一致と違い
ー以下は
谷崎潤一郎作品
「鍵」: 妻を不貞へ仕向け裏で互いの日記を読む
「刺青」:理想の女に仕上げる刺青
「少年」: 少年少女達のごっこ遊びが過激すぎて…
「痴人の愛」: ナオミを理想の女へ…
「卍」: レズビアンと中性の男と男の絡み合い
「冨美子の足」: 隠居の妾の足の話
「蘿洞先生」:記者が作家を訪ねると少女が…
「憎念」: 性と憎悪と三角関係について
「青い花」:「あぐり」の話
「瘋癲老人日記」:息子の嫁の足の話
などの総括であるー
プロローグ
若い頃 読んでいて 読んでいなかったことが
あまりにも多く愕然とする🫨
例えば 川端康成 「伊豆の踊り子」は
「伊豆の踊り子」の前後作品
「伊豆の踊り子」以外の作品を読まないと
「伊豆の踊り子」の「いい人ね」に涙する川端康成を読んだことにならない
し
シネマ=目=鏡の中の世界に生きている川端の
「みずうみ」「水月」「青い海黒い海」etcでの鏡像反転を通してしか
「雪国」というファンタジーが見えて来ない
など
川端康成にとっての
死=生
幻想=現実
そんな反転した川端ワールドが
谷崎潤一郎作品を読んでいて
より鮮やかになってきたということ
そして また
川端康成に比すると
谷崎潤一郎作品がクリアに見えてきたことに
驚いている
二者の
共通点や違いに焦点を当てながら
谷崎潤一郎作品の特徴を掴むことを本要旨とする
1: 睡眠薬
睡眠薬😇
2人とも
睡眠薬で女を眠らせ
女の理想の形態を形成しそれを耽溺する
川端康成の「眠れる美女」
谷崎の「刺青」「鍵」…
清吉は何気なく娘の側に近寄った。彼の懐にはかつて和蘭医から貰った麻睡剤の壜が忍ばせてあった。
両者にとって
死とは 眠り
夢であり
最高の幻想
そしてそれこそが生
2: 女に傷つけられたいフット・フェティシズム=死=生
川端は立て続けに父母を含む親族を喪失し
最期の拠り所である祖父の死において
しびんの尿=「痛み」が小川のせせらぎに叙情的に変化した人である
谷崎潤一郎の場合は性と痛みに創造性の源があることが見えてくる
性慾の発動を覚えるまで、ほんとうに人を憎むという事を知りませんでした。
性と憎しみの強迫的追求
女に傷つけられ
女に嫉妬を含む痛みを与えられねば
情念=パッションが湧かないところから
受難の関係性
痛み=性がみえてくる
痛い時でも性欲は感じる。痛い時の方が一層感じる、と云った方がいいかも知れない。あるいは又痛い目に遇わせてくれる異性の方により一層魅力を感じ、惹きつけられる、と云った方がいいか。 これも一種の嗜虐的傾向と云えば云えよう。若い時からそう云う傾向があったとは思わないが、老年に及んでだんだんとこんな工合になって来た。」
トラウマは老年になればなるほど強まるからだ
作家である蘿洞先生の家を訪問した雑誌記者は
見てはいけないものを見たかのように
作家の家を後にする笑😆
小女は、なお先生の胴体の上に腰かけたまま、小さな一本の籐の笞を取り上げ、片手で先生の髪の毛を摑み、片手で先生の太った臀をぴしぴしと打った。すると先生はその時始めて、少しばかり生き生きとした眼つきをして「ウー」と呻ったようであった。
ここに谷崎のフット・フェティシズムの根源がある
女に傷つけられる痛み
女性の足で踏まれること
がマゾヒスティックな快楽をもたらすのだ
「冨美子の足」
お富美や、後生だからお前の足で、私の額の上をしばらくの間踏んでいておくれ。そうしてくれれば私はもうこのまま死んでも恨みはない………もうすぐ私は息を引き取る。……お富美、お富美、私が死ぬまで足を載っけていておくれ。私はお前の足に蹈まれながら死ぬ。
そして死して踏まれ続けられることが可能となる
ならば死の方が生より貴いともいう
僕は一人の男子として生きているよりも、こんな美しい踵となって、お富美さんの足の裏に附く事が出来れば、その方がどんなに幸福だかしれないとさえ思いました。それでなければ、お富美さんの踵に蹈まれる畳になりたいとも思いました。僕の生命とお富美さんの踵と、この世の中でどっちが貴いかといえば、僕は言下に後者の方が貴いと答えます。お富美さんの踵のためなら、僕は喜んで死んでみせます。
そして
「瘋癲老人日記』では
永遠=死において女の足に踏まれ続けることを
叶えるために
老人が愛する息子の嫁=颯子の足型を
拓本にとって墓石に彫り
その「仏足石」のもとに永遠の眠りにつくことを夢みるだけでなく
それを現実化する。
予の魂も何処かしらに生きていて、彼女の全身の重みを感じ、痛さを感じ、足の裏の肌理のつるつるした滑らかさを感じる。死んでも予は感じて見せる。感じないはずがない。同様に颯子も、地下で喜んで重みに堪えている予の魂の存在を感じる。あるいは土中で骨と骨とがかたかたと鳴り、絡み合い、笑い合い、謡い合い、軋み合う音さえも聞く。何も彼女が実際に石を蹈んでいる時とは限らない。自分の足をモデルにした仏足石の存在を考えただけで、その石の下の骨が泣くのを聞く。泣きながら予は「痛い、痛い」と叫び、「痛いけれど楽しい、この上なく楽しい、生きていた時より遥かに楽しい」と叫び、「もっと蹈んでくれ、もっと蹈んでくれ」と叫ぶ。
3:鏡像反転性
このように谷崎潤一郎の世界では
死と生
現実と幻想
世界が完全に鏡像構造している
痛みがそうさせるのだ
「青い花」
主人公があぐりという女性と街を歩いている
彼とあぐりとの間柄は今更冷やかすほどの事でもなし、二人が一緒に銀座通りを歩いていたって別に不思議はない
でも途中から分かってくる
あぐりは生ではない
生きたあぐりではない
幻覚がかくまで現実と一致していた
谷崎は幻想のあぐり
彼の理想のあぐりという女と歩いている
あぐりというものを考える時、彼の頭の中はあたかも手品師が好んで使う舞台面のような、真ッ黒な天鵞絨の帷を垂らした暗室となる、――そしてその暗室の中央に、裸体の女の大理石の像が立っている。その「女」が果してあぐりであるかどうかは分らないけれども、彼はそれをあぐりであると考える。少くとも、彼が愛しているあぐりはその「女」でなければならない、――頭の中のその彫像でなければならない、――それがこの世に動き出して生きているのがあぐりである。今、山下町の外国人街を彼と並んで歩いている彼女、――その肉体が纒っているゆるやかなフランネルの服を徹して、彼は彼女の原型を見る事が出来、その着物の下にある「女」の彫像を心に描く。一つ一つの優婉な鑿の痕をありありと胸に浮かべる。今日はその彫像をいろいろの宝石や鎖や絹で飾ってやるのだ。彼女の肌からあの不似合な、不恰好な和服を剝ぎ取って、一旦ムキ出しの「女」にして、それのあらゆる部分々々の屈曲に、輝きを与え、厚みを加え、生き生きとした波を打たせ、むっくりとした凹凸を作らせ、手頸、足頸、襟頸、――頸という頸をしなやかに際立たせるべく、洋服を着せてやるのだ。そう思う時、愛する女の肢体のために買い物をするという事は、まるで夢のように楽しいものじゃないだろうか?
谷崎にとっての刺青は
自己の理想にふさわしい「絵」の女「にする」
ための刺青、
「頭の中にある『女』の彫像」 (「青い花」)
=「完全に画面の女になり切る事が出来る」女
「どっちが絵で
どっちが人間だか
分らなくなる」ような体、腕、左足の親趾の突端」
めっちゃ細かいが☝️
「国貞の描いた女に化けてしま」える位「生れながらにすっきりとした、なまめかしい肢体を備えた女」を探し続けている (「冨美子の足」)
だから「痴人の愛」において
ナオミが良いのは「想像通り中ったから」であり
ナオミは少女から理想に育てあげた
谷崎の「有難い偶像」だ。
慶應男子学生を荒らし廻ったことは
理想的ではないが尚更、理想なのだ
谷崎は女に踏みつけにされたい
それが理想だからだ
だから
谷崎のなかで
理想と現実が
夢と現実が
二重の姿になって浮かび上がる
彼女の顔、頸、肩、腕、すべての輪廓が二重になって見え、彼女の胴体の上にもう一人の彼女が折り重なっているように見えた。間もなく僕は眠ったらしかったが、夢の中でもなお妻が二重に見えた。最初は全体として二重に見え、やがて部分々々がバラバラに空中に散らばって見えた。眼が四つ、その眼と並んで鼻が二つ、少し飛び離れた一二尺高い空間に唇が二つ、という風に、しかも極めて鮮かな色彩を帯びて。………空間が空色、頭髪が黒、唇が真紅、鼻が純白、………そしてその黒さも、紅さも、白さも、実物の彼女よりははるかにけばけばしく、映画館の絵看板のペンキのように毒々しかった。夢がこんなに生々しい色を帯びて見えるのは神経衰弱がよほどひどい証拠だなと、夢の中ではっきりとそう思いながら、僕はじーっとその夢を視つめていた。右の足が二つ、左の足が二つ、水中にあるように浮遊しているのが、その肌の白かったことといったらなかった。しかし形は紛れもなく彼女の足であった。足と並んで、足の裏がまた別に浮かんでいた
つまり「昏睡しているか、眼覚めているか、眠ったふりをしているか」は問題ではなく「僕が僕であるか木村であるか」さえも
分らなくなるという二重性 (「鍵」)
胴から生えている首が、木村になったり僕になったり、木村の首と僕の首とが一つ胴から生えたりして、その全体がまた二重に見えた
ご存知の通り
谷崎ワールドとは
SMワールド
相手を苦しめ
嫉妬に苦しみ悦ぶSM世界
苦しみ=悦び
愛=憎しみ
夫を憎んでいると云われましたが、憎む一面に愛していることも事実です。憎めば憎むほど愛情も募って来ます
だから
普通の恋愛における女性ではダメ🙅
三角関係 不倫
誰かを間に入れて
苦しめ 嫉妬を通して恋愛を苦しみ楽しむ
あなたというものを間に入れ
「私の夫と木村さんとは一身同体で、あの人の中にあなたもある、二人は二にして一である」
「鍵」は恐ろしい世界である
妻は 木村という娘の彼氏と性関係になり
娘への優越感に浸り
夫とも再燃するのだ
「ミディアムを中に入れない」と燃えないからだ
娘=敏子の傷心
夫の傷つき
木村の傷つきなしでは燃えないからだ
夫も木村も然りだ
夫は木村なしには妻に奮い立たず
木村もこの企てに喜んで参加している
みんなSM🥶
フェティシズムの快楽というのは
想像力によるところが大きい
物語に酔う
悲劇に酔っているのだ
エンディングは末恐ろしい
嫉妬で老体を興奮させ続け
「血圧を絶えず上衝させることに手段をつくし」殺し
木村の計画では、今後適当な時期を見て彼が敏子と結婚した形式を取って、私と三人でこの家に住む、敏子は世間体を繕うために、甘んじて母のために犠牲になる、と、いうことになっている
恐ろしすぎる
世間体のため
娘を 隠れ蓑として
娘に自分の愛人と結婚させるのだ
つまり
サディストとは苦しめるのが好きな人
マゾヒストは苦しめられるのが好きな人
別々ではなくて
ひとを苦しめ 苦しみに喜びを同時に見出す
サディストでありマゾヒスト
サディスト=マゾヒストなのだ
真の狙いは僕を苦しめることにあったのだと思います…堪えられるだけ堪えさせて、そこに快感を見出しているのだと思います
だから 苦しめー苦しむ 一心同体において
木村さんかと思うと夫であったり、夫かと思うと木村さんであったりする
自身の喪失された半身=欠如を
補填し合う同性愛関係も同様。
フェティシズム、同性愛、マゾーサディズムは
同じ性倒錯だ。
光子と園子というレズビアン・カップルも
「腕と腕とを互の背中で組み合うて、どっちの涙やら分らん涙飲み込み」(「卍」)
痛みの中で自他は融合し1つ=永遠=死に到達する
①
光子は
婚約者、綿貫が性的不能=中性とか言いながら実は、他の女がいるのでは?と疑い
同時に
同性愛対象の園子が園子の夫と関係を持つことに苦しむ
そして
②
園子は
レズ恋人光子と婚約者綿貫が実は性関係を持ってるのではと妬み
③
最期の最期に
光子が園子の夫と不貞を始めるという「光子の計略図」により
園子と園子の夫は「お互に疑がい合い、嫉妬し合」い
光子ー園子ー園子の夫で死を選ぶ
サディスト=マゾヒストはこのように痛みのある関係性=死の中でしか生きた心地がしない
「冨美子の足」の
愛する女性の足に踏まれながら息を引き取る老人が燃えたのはその冨美子が隠居の妾であり
「瘋癲老人日記」
で颯子は息子 浄吉の嫁であり
その颯子が甥っ子の春久とも関係を持っているから
夢中になる
これら
「冨美子の足」
「瘋癲老人日記」
足フェティシズムはもち実話
「エキゾティックな女」を好きで
息子の嫁と関係があった
という谷崎潤一郎の最期にまさに同じ。
息子の嫁は谷崎とのやりとりの手紙を
親族より隠し
最近それが公開されたことで明らかになった話だ
4: 部分性というフェチ=物象化
要するに
谷崎潤一郎の女は 部分=足
足が「顔」のような表情を浮かべて」おり
(瘋癲老人日記」)
「冨美子の足」でも顔ではなく足の絵が好んで描かれる
普通の獣や人間の爪は「生えている」のですが、お富美さんの足の爪は「生えている」のではなく、「鏤められている」のだといわなければなりません。そうです、お富美さんの足の趾は生れながらにして一つ一つ宝石を持っているのです。
このように
何ページにも渡って 足…足…足 ですので
部分化されている身体箇所を
ハイライト アンダーラインなんて
思えば 谷崎作品 真っ赤になります
それくらい 「足」🦵足…足🦶…足フェチ
足だけでこれだけの描写を続けられる小説家
なかなかいない
流石です👏
どれくらい長いの?
興味ありますか?
一箇所だけやってみましょう
長いですヨォ
こんな形の整った立派な「足」は今までかつて見たことがありません。甲がいやに平べったかったり、趾と趾との列が開いていて、間が透いて見えたりする足は、醜い器量と同じように不愉快な感じを与えるものです。しかるにお富美さんの足の甲は十分に高く肉を盛り上げ、五本の趾は英語の mという字のようにぴったり喰着き合って、歯列の如く整然と列んでいます。しんこを足の形に拵えて、その先を鋏でチョキンチョキンと切ったらばこんな趾が出来上るだろうかと思われるほど、それ等は行儀よく揃っているのです。そうして、もしその趾の一つ一つをしんこ細工に譬えるとしたならば、その各々の端に附いている可愛い爪は何に譬えたらいいでしょうか? 碁石を列べたようだといいたいところですが、しかし実際は碁石よりも艶があり、そうしてもっとずっと小さいのです。細工の巧い職人が真珠の貝を薄く細かに切り刻んで、その一片一片を念入りに研き上げて、ピンセットか何かでしんこの先へそっと植え附けたら、あるいはこんな見事な爪が出来上るかもしれません。こういう美しいものを見せられるたびごとに、僕はつくづく、造化の神が箇々の人間を造るに方って甚だ不公平であることを感じます。普通の獣や人間の爪は「生えている」のですが、お富美さんの足の爪は「生えている」のではなく、「鏤められている」のだといわなければなりません。そうです、お富美さんの足の趾は生れながらにして一つ一つ宝石を持っているのです。もしその趾を足の甲から切り放して数珠に繫いだら、きっと素晴らしい女王の首飾が出来るでしょう。
その二つの足は、ただ無造作に地面を蹈み、あるいはだらしなく畳の上へ投げ出されているだけでも、既に一つの、荘厳な建築物に対するような美観を与えます。しかるにその左の方は、横さまに倒れかかろうとする上半身の影響を受けて、ぐっと力強く下方へ伸ばされ、わずかに地面に届いている親趾の一点に脚全体の重みをかけて、趾の角でぎゅっと土を蹈みしめているのです。そのために足の甲から五本の趾のことごとくが、皮膚を一杯に張り切っていると同時に、またどことなく物に怯えてぞっとしたような表情を見せつつ竦み上っているのです。(表情という言葉を使うのは可笑しいかもしれませんが、僕は足にも顔と同じく表情があると信じています。多情な女や冷酷な人間は、足の表情を見るとよく分るような気がします。)それはちょうど、何物かに脅やかされて将に飛ぼうとしている小鳥が、翼をひしと引き締めて、腹一杯に息を膨らました刹那の感じに似ていました。……
裏から見ると、ちぢこまっている五本の趾の頭が、貝の柱を並べたように粒を揃えているのでした。もう一本の足の方は、右の手で地上二三尺ばかりの空間に引き上げられているのですから、全く異った表情を示していました。「足が笑っている」といったら、あるいは普通の人には腑に落ちないかもしれません。先生にしても、ちょっと首を捻って変な顔をなさるでしょう。しかし僕は、「笑っている」というより外にその右足の表情をいい現わすべき言葉を知りません。ではその足はどんな形をしていたかというと、小趾と薬趾と二本の趾を撮まれて宙に吊るし上げられているために、残りの三本の趾がバラバラになって股を開き、あたかも足の裏を擽られる時のように、妙なしなを作って捩れているのでした。そうです、足の裏が擽ったい時などに、甲と趾とはしばしばこういう表情を見せるのです。擽ったい時の表情だから笑っているといったって少しも差し支えはないでしょう。僕は今も、しなを作っているといいましたが、趾と甲とが互いに反対の方角へ思い切り反り返って、その境目の関節に深い凹みを拵えている形、――足全体が輪飾りの蝦の如く撓められている形、それはたしかに見る人の眼に一種の媚びを呈するものだと、僕は思います。お富美さんのように踊りの素養があって、体中の関節が自由にしなしなと伸び縮みするのでなければ、とてもあんなになまめかしく足が反り返るものではありません。そこには阿娜っぽい姿の女が、身を飜して舞っているような嬌態があるのです…………
やっぱ無理です
間を端折り
前後カットしてもこれ
もう終わらないのです
フット・フェティシズムこそが谷崎文学を貫く核
でも🦶
足を描く谷崎明るくないですか🌟
生き生きしてますよね🔆
谷崎の女は
部分=足として生き生きと🤭踊っている
かのようで生命に溢れています
(部分=幻想=死して元気とでも言いましょうか)
川端康成の陰なバラバラ殺人に比べると。
三島も言ってるが
川端の女は女として生きていない
女が死んだ時 男が生きるかのよう
(「青い海 黒い海」)
例えば
川端康成「少年」で
毎夜抱きしめて眠った💤同性=清野(実在の小笠原)の片腕は
晩年に切り取られ生命を失った女=異性の「片腕」となる
川端後期作品 における
女=異性への非人間性にはまじゾッとする
谷崎潤一郎の女も足でしかないのです
でも
笑いながら読める😀
三島由紀夫でも愕然とするような 川端康成の
「眠れる美女」「禽獣」「片腕」……
ここまで人間(女)をバラバラに分解できるのか
「地獄」「無道徳」「反人間主義」
三島は川端作品をこのように形容するが
本当にゾッとする
残虐性はMAX
女は動物=物
女性の殺害=片腕切り取り
など まるで
器物破損の扱いくらいのレベル(「片腕」)
死んだら代わりがいますくらいの軽薄度(「眠れる美女」)
5: 動物性 雄から雌の川端 と 雌から雄の谷崎
川端康成「禽獣」では
上記のように
女の生態と動物の生態が重ねて幻想され
「女はイヌのような顔をし、イヌは女のような顔をしている」
(三島由紀夫「川端康成ベストスリー」)
違いは
川端では
雄が雌から奪い
谷崎では
雌が雄に乗る🐎🐕🤭‼️‼️
そして
雌が雄を虐げる
独自のSMワールドで‼️
私が馬になって彼女を背中へ乗せながら、「ハイハイ、ドウドウ」と部屋の中を這い廻って遊んだこと。――その事をこの上もない幸福のように空想したりするのでした
床に四つ這いになって、今も彼女の体が背中へぐッとのしかかってでもいるかのように、部屋をグルグル廻ってみました。それから私は、―――此処に書くのも耻かしい事の限りですが、―――二階へ行って、彼女の古着を引っ張り出してそれを何枚も背中に載せ、彼女の足袋を両手に篏めて、又その部屋を四つン這いになって歩きました。
人間で三人犬にならないか。私がお菓子や何かを投げてやるから、皆四つ這いになって其れを喰べるのさ。ね、いゝだろ」と云い出した。「よし来た、やりましょう。―――さあ犬になりましたよ。わん、わん、わん」早速仙吉は四つ這いになって、座敷中を威勢よく駈け廻る。其の尾について又私が駈け出すと光子も何と思ったか、「あたしは雌犬よ」と、私達の中へわり込んで来て、其処ら中を這い廻った。「ほら、ちん/\。………お預け/\」」
谷崎ワールド笑えませんか
もうどうしたらいいんでしょう レベルで😅
でも
男も女も「一匹の獣」(青い花)ではあるのです
そして
驚くべき一節😱
女とは 「女に化けた光子の狐」(少年)
にすぎない
女が獣になるのでなく
獣が女に化けている
と谷崎はいうのです
とことん獣
6: 母と処女性
妖艶な獣のような足フェチ🦶谷崎が
あれほどまでに執拗 且つ 詳細に
何十ページにもなるかもしれないほどに描いた足🦶達
「冨美子の足」や
「瘋癲老人日記」の颯子の足
の語りは
「母の足」への語りへと続く
母の顔や気質についての描写はもちろんなく
相も変わらず
語られるのは母の足のみ
母も美しい足をしていた…
母の足は予の掌の上に載るくらいに小さく可愛いかった。
そして
奈良の三月堂の不空羂索観世音菩薩の足を見ると、予はいつも母の足を思い出す。背の低さも皆母と同じだった。
つまり
処女性の象徴
あどけない手、子供のような手、赤ん坊のように弱々しくて
膝や踝の関節など、しんこを括ったように可愛らしく括れてえくぼが出来ていたのだ
崇拝するサディスティックな女の足という
フェティッシュ=代理物が
回復したい全体性=母=処女性とは
何の代理
何を隠しているのか
最後に考えねばならないが
議論され尽くしていることの繰り返しになるので簡潔に述べるに止める
そして
川端康成の処女性好きも「眠れる美女」より明白すぎるので割愛
獣が女に化けている
でも
見たくない
フェティッシュ=代理物を立てて
それを隠す
それが処女性崇拝
母は聖母 菩薩なのだ
ただし
母とは「卍」や「少年」におけるペニスを持った「光子観音」のようなサディスティックな母
「刺青」において
「それへ己れの魂を刺り込」んだ理想の母親
母がサディスティック=能動者でないなら
自分が罰せられるからだ
自分が
受難者ではなく
能動者ということになり
その去勢不安から
母親のペニスを維持したいという願望が生まれ
フェティッシュ=代理物を形成
ペニスを持たない母親=優しい女性を否定し
真実を隠し通すために
見ていたい代理物
ペニスをもった母親という理想=
サディスティックな女の足に踏まれ
虐げられ続けることを望むマゾヒストは
こうして
苦しみ続ける受難=パッションの物語に
情念が掻き立てられるフェティシストとなり
「幻影の中に宙吊りにされた理想的なるものに向って自分を拡げること」で
サディスティックな女を好み
踏まれその女にひれ伏し
幻想世界に遊ぶ(ドゥルーズ「マゾッホとサド」)
上記議論は勿論フロイトの「フェティシズムについて」からであるが
いうまでもなく
フェティシズムの幻想世界とは
幼少期の虐げられた痛みからの飛躍
サディスティックな女=母崇拝は
同性愛への最後の砦
Pederasty((少年を対象とする)男色)の趣味はないのだが、最近不思議に歌舞伎俳優の若い女形に性的魅力を感ずるようになった。それも素顔では駄目だ。女装した舞台の上の姿でなければ駄目だ。そうそう、それで思い出したが、予にも全然ペデラスティーの趣味がないとは云えないかもしれない。 若い時にたった一遍だけ奇怪な経験をしたことがある。昔新派に若山千鳥と云う美少年の女形がいた…
谷崎潤一郎作品でも「陰影礼讃」と「瘋癲老人日記」で女型の男性との同性愛についても語られている
同性愛とはサディズム、マゾヒズムの延長線にあるフェティシズムの一形態に過ぎない
それらを美的な構造で描き切ったのが谷崎潤一郎という人なのである