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「おかあさあん」と呼ぶ声が消える〜プラトンの理想「国家」と村田沙耶香「消滅世界」
「家庭という意味なら、いまはそんなもの存在しない。だれも家庭を持っていない…
あなたの時代には、結婚や家族はすでに解体しはじめていた。多くの人々は束縛を好まず、自由な生活を送りたがっていた」
彼女はまた歴史の授業のことを持ち出した
「男の人はどうしたの?」
目が覚めてから四日が経っていたが、男性はただのひとりも見かけていなかった。
「どういう意味?
そこらじゅうにいるじゃないですか?」
程心はじっと目を凝らした。
彼女(彼)らの顔は
なめらかで美しく、髪は肩にかかるまでの長さだった。体つきもすらりとしてしなやかで、まるで骨がバナナでできているみたいだ。身のこなしは優雅でやさしく、風運ばれてくるその声はソフトで耳にここちよく響く…
しばらくして、合点がいった…
男らしさが尊ばれたのは、おそらく1980年代が最後だろう。それ以降、社会や流行は、伝統的に女らしいと見なされる特徴を備えた男性を好むようになってきた。程心は21世紀初頭の日本や韓国の男性アイドルを思い出した。はじめて見たときは、美少女だと思ったものだ……
劉慈欣 による 「三体」
婚姻外不倫の増加は
家族の必要性を疑問に付し
世界はこんなにも「女性化」する
これは 現在が未だ追いついていない
サイエンス・フィクション
ラカンが
「おのれの性が何であろうと」
男も女も皆が「女性を愛する」ことに帰結する
(ラカン レトゥルディAE467)
と言っていたことを
まずは詳細確認してみよう
まず もちろん
①男性の異性愛者は
女性を愛する
そして
② 男性の同性愛者も
フロイトによると
母を愛しすぎて「初恋を乗り越えられない」
がゆえ
「女性からの逃避」を続け
同性愛者であり続ける (性理論三篇)
らしいから 女好きに かわりはない
③女性の同性愛者は
父に愛された母に同一化し
母類似の女性を愛する
のだから やはり 女性を愛しており
(フロイト「女性の同性愛の発生の一事例」)
最後に
④ 女性の異性愛者ほど
女を愛している者もいない
というのも
異性愛者の女性は 男性を愛しているように
みえるが、見えるだけで
女性は実は「愛するより愛されたい」。
(フロイト「ナルシシズム入門」)
この条件を満たす「愛してくれる」男性だけを
「愛する」のが「女」
自分を愛さない男など 愛する価値なし なのだ
最もわかりやすい例は
三島由紀夫 「禁色」の 康子だ
彼女は 夫に
他に男/女いると分かった途端に
冷めざめとし 夫に無関心になっている
異性愛者の女の典型例だ
彼女は軽い、どうでもいいような笑い方をした…
要するに、もう言葉は通じなかった
ならば
誰が 男を愛しているのか
誰もいない
母だけである
そして
その母も消滅すればどうなるのか?
男は消滅していく。
劉慈欣が「三体」で分析した通りなのだ。
親ガチャを消去した
プラトンの理想国家がそこに生まれる
そしてその未来予想図を描いた
村田紗耶香「消滅世界」
で消滅したのは
「おかあさあん」と呼ぶ 子どもの声
平野啓一郎氏が「本心」で
言及している「おかあさあん」を呼ぶ声でもある
男性も人工子宮を持てるようになり
(「シェルブールの雨傘」ジャック・ドゥミ監督による
「モン・パリ」では男性(マストロヤンニ)が妊娠する
ちょっと脱線💦)
「結婚」の必要も
「家族」という概念も喪失
「性」が社会の管理のもと、
科学的交尾=人工授精のみによる出産へと
画一化され
なまの交尾を通して出産した者は
「妻」と「近親相姦」した野蛮な「動物」として
摘発されるような世界
では、出産後に
子どもは社会に預けられ、
完璧な幼少期が期待できる。
みんなが「子供ちゃん」の
お父ちゃんとお母ちゃん
「愛玩動物」を可愛がるように
平等に
社会の「子供ちゃん」を愛する世界。
親ガチャも消えた
そんな
プラトンが「国家」で描いた理想世界で
喪失されたのは
ソクラテス的「知」と
アリストテレスの愛した「生」の「生(なま)」性。
「おかあさあん」 を探す声
「おかあさあん」
声の後を追い、我が子を探す「おかあさん」
の罪は 窃盗罪
社会の子ども
国家の所有物を窃盗する犯罪者
そんな異常が正常となった世界では
正常ほど「狂っているのに、こんなにも正しい」
とされるので
「消滅世界」著者 村田紗耶香氏は
三島由紀夫「音楽」内
汐見先生の診療室を10代に訪れた
(村田沙耶香「もう一つの音楽」)
日本国民すべてがあんまり気狂いではなさすぎるので、三島氏は、せめて自分ひとりで見事に気狂いを演じてやろう、と決意したのに違いない