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キムタクが彼氏です〜時間と距離

 タイトルから程遠いところから始めよう。
ひと…肉体があるから惑わされるが
いのち とは なんだろうか?
リチャード・ドーキンスは、ひとは「遺伝子(情報)の乗り物」に過ぎないという。

 フロイトよりも前に、昔のいわゆる「憑依」を「解離」だと発見したジャネは因縁が何世代にも渡り、引き継がれる関係性の「反復」に着目。フロイトがその研究を引き継いだ。

 ひとは時間と空間(距離)を操っていると思っているが実は操られている。それでも人間は自らの主体性を感じていたい。スピードを飛ばし、早くどこどこへ行こう。韓国に数時間で行けるとか。

 ひとは距離と時間を超えたと思っても、ただ「場」における関係性(因縁)をただ、繰り返す「入れ物」「乗り物」に過ぎず、距離と時間を超えられない。自分の関係する限定的小さな「場」を絶対としてしまうからだ。

 例えば、次の例を考えてみよう。先生が
Mr. Casey Tadano と生徒を呼ぶ。アメリカ人?日本人?外人は皆 彼のことをCasey と呼び、日本人は忠野さんと言う。でも、外国では身分に関係なく、下の名前で呼び合うことも多い。だから、日本人である私も「けいし」と呼ばせてもらっていた。彼はとても教員たちに気に入られていた。何故?大物? Casey Tadano で検索。出てこない。当然だと思った。皆が出てこなかったからだ。誰もがSNS情報をアップする今の時代と異なり、当時(1980年代)は皆が簡単にインターネットにアクセスできず、データベース情報量も限られていた。

 今の時代は皆が検索すれば、出てくる。だから、出てこない方が怪しい…と思う者もいるだろう。しかし、検索しても出てこない場合、その人が存在しないと結論づけることはできない。以前、病院で順番待ちをしていた時、「川崎 けんご ひろみ さん」が呼ばれた。見た目は男性。そんな時代だ。検索キーワードが間違っているのかもしれないと訂正をかけられる謙虚な人がどれだけいるのだろうかと東浩紀は「訂正可能性の哲学」で問うている。

 コスモポリタンで国際化、多様化したこの時代。ダブルネームを持つ者も多い。上記、Casey Tadanoのようにアメリカ人でありながら日本人の親を持つ者、国際結婚しアメリカ永住権を持っており、海外の名前と日本の名前のダブルネーム(名字)を持つ私のような者もいる。我が子なんて2つの名字と2つのファーストネームを持っている。中学までの娘を検索するには1つ目のファーストネームとラストネーム。中学以降の娘を検索するには2つ目を入力しなくては娘はネット上に出てこない。ハイフンで名字を繋いでいる人もいるし何通りの可能性もある。例えば Michael Keigo Casey (~)Tadano 国際結婚ではそんな人は多い。

 情報溢れる平成と令和と呼ばれる時代。情報(名刺)に体を乗っ取られた安倍公房作品の主人公。「S・カルマ氏の犯罪」芥川賞受賞作。文字(情報)が即時に「生身」を超える。今の時代、マイナンバーカードがないと生身の「私」が本当の生身の私かを「証明」できない。「モノ」はミラリングなしに単体ではそれを証明できない。マルクスの発見した剰余価値を求める不等価交換。ひとはひとを自己に都合の良いように校正し理解する。安倍は先見の明があったとしか思わざるを得ない。

 プライバシーにうるさいこの時代に、ひとはひとをネットで検索し即時に誰かが誰かの情報を求める。本当の意味でプライバシーが守られていたのは昭和までではなかったか?ひとはひとを情報を通してではなく、生身、つまり関係と時間を通してゆっくりと距離を詰めその人が誰かを知っていった。これこそが本当のプライバシーを尊重することではないのか?

「先生 会いに行って良いですか?」5年前のの教え子がロンドンまで会いに来た。離れていた時間と距離。

 人と人。親と子。男と女。友と友。
長い時間をかけて互いを知り、距離を徐々に縮め、信じ合う。

 友や家族、愛する人に綴る手紙。「プリーズ・ミスター・ポストマン」(ビートルズ) お返事がポストに来ていないかな。朝からポストを何度見に行っただろう。とか、なんとか言いながら、実は筆不精な私を探し続けてくれたのは友達のほう(笑)メールアドレスやらなんやら全て失くすからだ。

 今では数少なくなった公衆電話に置いてある電話帳で豊中市のTomokoさんを娘に持つMaekawa さんに一軒一軒電話を掛け続け、私を探してくれた友のことはとてもアナログで笑えて忘れることができない逸話。

 国際電話 「コレクトコールでいいから掛けてきて」「いいの?」「寝ているのではないか」時差を気にして、相手を慮るあまり電話をかけるのを躊躇したり。国際電話はべら棒に高かったからだ。それでもコインを入れ続けながら互いに時間的に繋がり続けていたい。距離を超えるコイン一枚。距離を超える時間だけでも繋ぎ止めておきたい。それが愛だったのだろう。

 時間。それが民主主義の要だった。
 アゴラ(広場) で時間をかけて対話を重ね、他者と熟議しながら意見を擦り合わせていく時間性が民主主義の良さだったのだ。そこに笑いあり。喧嘩あり。バッハの「コーヒー・カンタータ」をご存知だろうか?バッハが娘のコーヒー好きを諦めさそうと掛け合う親子喧嘩のカンタータはまさに親と子が築いていく大切な「時間」。バッハのコーヒーハウス好き 民主主義的性質が複数の旋律を重和する対位法を生んだ。そんなバッハの音楽は時間と距離を超えて我々に愛を伝え続けている。モーツアルトに…ビートルズへとその影響は幅広い。

なのに、
民主主義から時間が、人々の心から人との距離を尊重する心が消えた。もちろんメディア、インターネットの影響だ。LINE 、Facebook、インスタグラムetc. SNSの普及が時間を消した。テキスト情報に人は情緒的に一喜一憂し、民意は瞬く間に右にも左にも集結。本来、情報を操る主体であった人が情報に操られるようになってきた。まさにカントが示唆した様に、対象を認識するのではなく、認識を対象とするそんな時間性の欠落した時代に突入した。

 誰かのことをよく知らない誰かが、誰かが誰かだと決定していくのだ。人々の心から距離も時間も消えた。ひとは即時性を求めるようになった。

〇〇は△△だ。
「人間と人間との関係が強いる絶対性のまえでは」1人の人間など無力である。(吉本隆明「マチウ書試論」)

そんな「関係の絶対性」は「法」であり「正義」。しかし、ひとを本当の意味で知るのにはどれほどの時間がかかることか。それでも認識は対象とされてしまう。対象を認識するには時間がかかるからだ。

「時間」と「距離」がどれだけ大切か ここである実験をしてみよう。以下を読んでいただきたい。この中にいくつ真実は含まれているのだろうか?

①私の元夫はハーバードで教えていた
②London School of Economics は官僚の定例の留学先であったため、政治家に知り合いも多い。
③ある有名な女性政治家から昔は毎日のように電話がかかってくる関係性だった

④メトロポリタン・オペラ、サンフランシスコ・オペラとともに、アメリカ3大オペラハウスの一つに数えられ、20世紀最高のソプラノ歌手と称えられたマリア・カラスが初舞台を踏んだシカゴ・オペラハウスのオペラ歌手が我が娘だ。

「キムタクと付き合ってます」

 絶対に真実と解されない真実。信じられない真実は信じられない、つまりフェイクとされる。アリストテレスが言うように、理解はある一定の大きさを超えると止まる。「あなた」にとって信じられないことは「嘘」となるのです。

でも

「時間」
 私を長年知っている者は上記を読み「…それで???」と言うだろう。時間を通して私の歴史を知っているからだ。私と時間を共にしていない人にとってはオール虚言にしか聞こえない(笑)

次に「距離」
私に近い距離、近い教育環境、職業、職場にいた者は「はいはい」
私と遠い距離、遠く離れて会っていない、私から遠い環境に生きてきた人であればあるほどオール 想像を絶するシミュラークル(嘘)の世界

それに…
嘘つきにどんなに真実を語ってもそれは嘘になる。ヴィトゲンシュタインが言ったように心が健全な人と病的な人は全く異なる世界に生きている。真実を嘘つきは嘘と解し、嘘というと真実では?となる。

「いのち」は温かいが「生身」はテクストに埋漏れ、その口は封じられる。時間と距離を横断する情報だけが一人歩きする。

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