阪急電車の記号論 in 千葉雅也 オーバーヒート
千葉雅也の小説「オーバーヒート」内
意味と無意味の意味から
記号論まで
東京と大阪の電鉄比較で
完結されてる箇所がある。
痛快極まりない。
大阪は
意味が濃すぎて
意味を失い
東京は無意味が故に
意味が生まれる
是非!
「小豆色の阪急電車。京都線は昼はガラガラで、進行方向を向いたふかふかの抹茶色のシートに小旅行のように身を沈めることができる。和菓子の色だ。その余裕ある印象がどうも疎ましい。東京の電車のもっとサッパリした色と比べてしまう。まあ JRや地下鉄なら東京と同じようなものだがあまり乗らないし、阪急が関西代表のように感じている。
東京の電車の色は互いを区別しているにすぎない。山手線のアマガエルみたいなグリーン、総武線のレモンイエロー、中央線のオレンジ。それらは記号にすぎず、それ自体に意味はない。ただのラベルだ。コンビニで売っている 3Mの付箋の色だ。ハタチの頃の経験にはその付箋が貼られている。
阪急電車のとろとろに煮込まれたあんこの色は意味を、歴史を押しつけてきてウザい。関西とは古き日本であり、古くからの意味の系譜に勘が働かなければ現在もわからない。そんな「一見さんお断り」の疎外感を強いられる。
東京は、現在を生きているだけでよかった──それはもっぱら渋谷新宿といった西側にいたからで、東京も東側にはもっと面倒な歴史があるのだが。
僕にとって大阪がどこも無意味に見えるのは、土地が帯びる意味が濃厚すぎて、異邦人である僕ではアクセスできないからだ。反対に、東京が僕にとって意味に満ちたものと思えるのは、東京はいたるところが無意味に至るまで歴史性を奪われた表面的都市であって、そのツルツルの表面を好きに滑り回って物語をつくることができたからなのだ。
大阪京都の移動は、関西人にとっては文化圏を越える大きな移動なのかもしれない。しかし僕にとっては、関西の東京の北へ行くのだから、埼玉へ通う感覚なのだった。
ー 千葉雅也 「オーバーヒート」