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ルサンチマンという他者の非定立=フーガ「逃走曲」
自分を認められない人間は
他者を否定して
自分を認める
つまり
「自己自身に対する勝ち誇れる肯定から」ではなく
「外のもの、他のもの、自己ならぬものに対して否という」
「裏口」からいかに転換―創造できるか
(ニーチェ「道徳の系譜」393-6)
言葉は他者を
上の楽譜のように少しずつずらし続ける
力の本質とは
自らの伝染力による投射(投影)的な
「逆立ちした言説」(ラカン)
他主体の自己同一性の定位が破れる までの
差異化の遂行と
他者性の変容と言うことができ、
それを
ルサンチマン(心理的傷つきやすさ、憎悪、奴隷道徳)
と呼ぶ。
「言は肉となって、わたしたちの間に幕屋を張った」
ラカンはこれを「愛のカーテン」と呼んだ。
ニーチェの哲学とは
いかに小児となるか、
マスク(仮面)に戯れるか、
いかに「子どものように」踊り続け
「舞踊者の正反対」へと到達するか
(ドゥルーズ「ニーチェ」p51)
神=超人の国に入り「無意識のうちにドラマが追求される」か
「力への意志」の哲学なのである。
マタイによる福音書18章3節にあるように
幼子にならなければ天国には入れず
そして「神なしにすますことができる」
ようになるやいなや
幼子は
「自分が神に当てはまる」と
主張するようになる
(ドゥルーズ 「ニーチェ」p55)
これは
フーガ(fugue)=逃走
モンテーニュが「エセ―」(Vol.2sec.27)
でいうとおり
復讐とは彼岸(非現実=言語)においてのみ可能
それは正義
民主主義や社会主義による
平等の追求に同じ原理を持つと言われている
追記
これは簡易な読書メモのコピー・ペイストによるため出典の有無にばらつきがあるのであしからず。