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回想断片① 〜『柱の傷』より〜

 柱の前に、ちいさな椅子を置く。肘かけと背もたれの部分が、1本の鉄パイプをぐるりと曲げて作られた子ども用の椅子だ。キャラクターのシールがぎっしり貼られた白い手すりは、ところどころ黒く錆びている。たぶん3歳くらいまで、私が使っていたのだけれど、もう小さくて座れない。

 ママがこの椅子を捨てないのは、たぶんもったいないからなのと、"踏み台"になるから。鉛筆を右手に、片足ずつ椅子の上に乗ると、きみどり色のビニールのクッションが、「しゅう」と音を立てた。左手で柱をつかみながらつま先立ちになって、できるだけ高いところ、手が届くギリギリの場所に、いっぽん、線を引く。ちょっとだけ、悪いことをした気分になった。

 もしもこの団地から引っ越すことになったら、お金を払ってキレイに直さなければいけない。この前ママがそう言っていた。ママはきっと、団地じゃなくて、もっともっと新しくて大きなマンションに住みたい。でももう、「あいうえお」のポスターはセロハンテープでべったり貼ってしまったし、その裏側の壁には私が大きな絵を描いてしまったし、遊んでいる時に開けたふすまの穴は、指を突っ込んだらよけいに大きくなってしまったし……。もしも本当に引っ越すことになったら、たくさんたくさんお金がかかる。

 でもぜったい、今日はこの柱に線を書かないといけない。今日から小学2年生になっから。もっともっと大人になったら、ずっとずっと背が高くなるから、今日はそこに印を付けた。

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