あの言葉を宝物にしている
先日、夜中にスマホの緊急地震速報が鳴って飛び起きた。「もし逃げる時には何を持って行こう?」と一瞬考える。我が家には大金もなければ秘伝のタレが入った壺もない。……いけないいけない、こういう時にいちばん大事にしないといけないのは命だよな、と思い直す。結局、「どうかどうか、みんな、命は大事にしよう」と念じながら、毛布を握りしめることしかできなかった。
小学生の頃は、「いざとなったら」持って逃げようと密かに心に誓う"宝物"があった。従姉妹のおさがりのオルゴール箱に、親戚の誰かがくれた海外の貨幣なんかを入れていた。他にも、夏祭りの出店で買ってもらった小鳥の形のガラス細工や、誰にもらったかも覚えていないオウムガイの貝殻が、私にとっては大切な宝物だった。
あんなに大事にしていたのに、今ではそれらがどこに行ってしまったのかも分からない。今、大人になった私が、「宝物は何?」と聞かれたとしたら、何と答えるのだろう。
なんにもないなぁ、と思っていたけれど、最近、インタビュー記事を書いていると思い出すのだ。「書く私」を信じてくれた人の言葉を。なかなか思うように書けず、「あー! むずかい!」と悩むたび、ふと、思い出す。そして私と同じく、そんな言葉を"お守り"みたいにして書き続けているであろう仲間たちのことも、いっしょに思い出すのだ。
そうか。誰もが、宝物やお守りみたいな誰かの言葉を自分の中に持っていて、時々それをそっと手のひらの上に取り出しては、自分を励まして歩いているのかもしれない。
言葉は簡単に誰かを傷つけてしまうから、とっても取り扱い注意の代物だけれど、一方で、どこかで誰かの大切なものにもなりうるのだ。
そして素晴らしいことに、言葉は場所もとらないから、いつでも持ち歩けて、大切に胸の中にしまっておける。そしていつでも好きな時に取り出せるのだ。
だから私はどんな時でも、自分の中に宝物を持っているのだ。