ママ友同士の会話に、古典と未来が潜んでいる
安冨歩氏によれば、中世までの日本では主語と述語がなかったそうです。
現代の私たちが中世の文章を読むと甚だ読みづらいのは、古語ということだけではなく、その曖昧模糊さ加減にある。
『親鸞ルネサンス』より
確かに読んでみると、言葉遣い以前に、誰がそれをやったの?というのがよくわからない。さらに一文がやたらと長いので、読んでいるうちに訳がわからなくなってしまう。
高校の古典の授業が辛くなるのは、多分そういう理由からだと思います。
源氏物語は読み聞かせ文学だった
『源氏物語』は、読み聞かせ文学だったと聞いたことがあります。だから、黙読していても全く意味が入ってこないと。
ここ半年ほど、『源氏物語』の読み合わせの会に参加しています。参加者が読みたい順にキリのいいところまで読み、全員で一つのエピソードを読むというものです。
先日「明石」まで読み終わりました。
一人では読めたもんじゃない源氏物語ですが、誰かが音読しているのを聞いて、自分も音読する、というように読み手と聞き手がいると、なぜかスムーズに読めてしまう。しかも、誰一人予習してこないので(苦笑)、つっかえながら読んでいます。それでも、意外と意味というか、感覚が伝わってくる。
そこで思い当たりました。ママ友同士の会話は、実は中世の文学とよく似ている、と。
初めてのママ友トーク
ウチは三人の子供たち皆、保育園に行ってないので、ママ友と接する機会がほとんどありませんでした。
仕事が忙しい、という理由で、PTAも避け続けてきたのですが、さすがに二人目の息子が中学校に入学したとき、1回くらいPTAの役員をやっておかないと申し訳ないような気がして、学年委員を引き受けたんです。
PTAの役員をやって初めてママ友の会話に交じった時、何を話しているのかさっぱりわかりませんでした。
「それ誰のこと?」「今の話とさっきの話の関係って?」とアタマにハテナマークが飛び交ったのを覚えています。
恐らくママ友トークは、時代の影響を一切受けず、中世から、もしくはそれ以前から連綿と続いてきたのです。
ある意味すごい文化遺産ですね笑
ママ友トークから未来の片鱗が
これからのコミュニケーションを考える時、近代以降の主語述語がはっきりした世界では、もしかしたら限界があるのかもしれません。
主語述語のはっきりした言語世界は、日本語体系には元々なかった。さらにその言語世界は、日本文化にはなかった「自己同一性」を求めさせた。
また日本にはもともと「自然」という言葉がなかった。自然と人工物、人間自身がごっちゃになって、自他の区別がないのが日本文化の特徴だと聞いたことがあります。
「誰が何をした」がはっきりしていない世界を引きずって、私たちは生きている。ママ友の会話は、外から来た人にはわかりにくいけれど、中にいる人にとってはすごく共感し合える。
黙読では理解できないのに、聞いてくれる人がいて、声に出して語ると通じ合える。
これらは、「あなたと私」「演者と聴衆」といった自他の区別、役割の区別を敢えてはっきりさせず、その場の全体感、空気感で何か物事が進行しているような、まさに曖昧模糊なコミュニケーションといえましょう。
しかしそれは、主従などの縦の繋がりではなく、円を描いて座るような、フラットな人間関係を生んでいるとも言えるのではないでしょうか。
大切なことは身近なものの中に
『源氏物語』の読み合わせをしているうちに、ママ友トークの貴重さに気がつきました。
それにしても、主語述語のない中世以前の世界観が、そんなに身近にあったとは知りませんでした。ある意味、無法地帯だからこそ、そのまま残ったのかも笑
大切なことは、普段の生活の中に潜んでいる。そういう目で生活を見直してみると、面白い発見があるのかもしれません。