藪蘭が教えてくれた「置かれた場所で咲きなさい」に隠れたもう一つの意味
10年くらい前に『置かれた場所で咲きなさい』という本が話題になりましたね。私は読んでないのですが、周りでも感銘を受けた人が多かったと記憶しています。
置かれた場所で咲きなさい。
いい言葉だなぁと思ってきました。
Reinhold Niebuhr(ラインホルド・ニーバー)さんという方の詩の一節だそうで、同書の著者である渡辺和子さんの人生を変えた詩だったそうです。
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今日の鎌倉は雨。
私は雨の庭が好きなので、朝ゴミを出した後、庭に降りて、しゃがみ込んで水に濡れて喜ぶ草の様子なんかを眺めていました。
昨年秋から庭に手を入れ始めてから、随分様相が変わってきました。
まず、種を蒔いて数年経つクローバーから芽が出て、庭中クローバーでいっぱいになりました。
そして、今まで見たこともなかった植物が次々生え始め、ミツバチやてんとう虫など、やってくる虫の種類も多様化しました。
今まで花が咲かなかった植物からは、花が咲き始めました。
今朝も、あちこちに生えている藪蘭に花が咲いているのを見かけました。
そこでふと思ったんです。
置かれた場所で咲きなさい。
というけれど、置かれた場所の環境によっては、咲かないケースもあるなと。自然の摂理として、咲くための環境や条件が揃わないと咲かないのは当然です。
置かれた場所で必ずしも咲かず、置かれた場所の環境が変わるまでじっと待っている。もしくは、根を広げて、少しでも整った環境下で咲こうとする。
「置かれた場所で咲く」というと、どんな状況も受け入れる、あるがままを受け入れて、その状況下で精一杯花ひらく、というイメージがあります。
しかし取りようによっては、「置かれた場所で根性出して、何がなんでも咲くんだ」という精神論として解釈できないとも限りません。
同書の中で、あるいは、ニーバーさんの詩の中で、「置かれた場所で咲く」ことは、もっと深みある言葉で綴られていると思います。
置かれた場所で咲けないときは、根っこを伸ばして、次に花開くときには、もっともっと美しく咲く準備をする、ということも含めての意味だと思います。(読んでないので、推測ですが)
なので、書籍としての『置かれた場所で咲きなさい』を批判しているわけではなく、不自然なまでに嫌なこと、難しいことまで受け入れるべきだ、という意味に取られる可能性もあるなと。
昭和までのブラックな職場でもなし、「そんなアホな、性格悪すぎやん!」と言う声が聞こえてきそうですが...苦笑
とはいえ、日常を振り返ってみると、私たちはこういった精神論を、親であれば子供に、経営者であれば従業員に、先生なら生徒に、無意識に押し付けてないだろうか。その環境でできる工夫を怠るつっかえ棒にしていないだろうか。
押し付ける前に、まずはその場の環境を整えてみようとか、配置を変えてみようとか、食べるものを変えてみようとか、なにかできることがないか、考えなければならないのではないでしょうか。
話が大きくなってしまいますが、考えようによっては、人類全体が今の生活環境に疲弊し、花を咲かせ、実を稔らせることが十全にできてないのかもしれない。コロナへの対応も含め、できる工夫がもっとあるかもしれません。
雨に濡れた庭の藪蘭から「君は、大丈夫?」と言われているような気がして、朝から気持ちが改まりました。
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思えば今日から盆の入り。
実家には帰れないし、お墓参りはできないけれど、離れていても、祖先に感謝することはできます。
色々あってもまずは今、生きていることに感謝したいと思います。