暗き秘密〜予定なき自然の調和に身を委ねる〜
ここ数日風が強い日が続いたせいもあってか、月がすごく澄んでいるような気がする。
三日月を眺めながら、最近どこかで見かけた、山崎方代さんの短歌を思い出した。
地上より消えゆくときも人間は暗き秘密を一つ持つべし 山崎方代
方代さんに言われると、秘密も悪くないと思ってしまうから不思議だ。
「暗き秘密」みたいな、ちょっとインビな秘密まで大事に抱きかかえて、あの世に渡っていくのも面白いのかもしれない、と。
暗くて嫌な人生だったとしても、そこにあるおかしみや軽妙さがある。
逆に、明るくて雲ひとつないような人生だったとしても、その一隅には、なにかしらじっとりした人生のしみのようなものがひっそりとくっついているーー。
そういうのが「生きている」という真実なのかもしれない。
死ぬまでにすべての疑問が解決するわけじゃないけれど、死ぬまで答えが全くわからない、というわけでもない。
そこそこ「こんなもんだな」と思いながら、いつもどこかに納得できないものがある。それは一体何なのか、自分でもよくわからない。わからないまま、自分自身に対しても「秘密」を抱えたまま、あの世に行くのだろう。
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人間は、どうも白黒つけたがるところがあるようだ。
そして一旦こうだと決めたら、不動のもの、普遍的なものとしてずっとそこに銅像のように立っててくれないと、不安になる動物である。
二足歩行や言葉を得て、飛躍的に多くのことを多くの人に伝達し共有し合えるようになった人間。
ちょっと他の動物より脳みそが大きかったばっかりに、直感だけではなく、知識とか精神とかいった他の動物にはない能力が身についた。そんな中で未来を予想し、それに備えて生きることも身につけた。
予定を立てられる生き物はおそらく人間だけだろう。そして、例えば、「選択と集中」などと、あたかも自分の意志で全てが回ると思い込めるのも。
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ところで、人間以外の生き物は地球や宇宙も含め、なぜ予定しなくても調和するのだろう。
それは宇宙意志だとか、神様の意志だという言い方もできるかもしれない。
けれど、そもそも宇宙には意志や目的なんぞないんじゃないだろうか。
神様に意志があるとすれば、それは神という概念を創造した人間の意志だろう。
むしろ調和とは、お互いに意志のないところ、自我のないところで初めて起こる現象なのではないか。そこに何らかの意志が介在しないからこそ、美しいと感じる。だとすれば何かを予定して、調和という現象を起こそうということ自体、ナンセンスだ。
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芭蕉はそういった意志の介在しない調和を「造化」と呼び、利休は完璧にしつらえた世界で起こる即興性を「一期一会」と呼び、それぞれの道の根本に据えた。
それぞれの道においてしっかりと「型」にはまれば、自然現象としての「造花」や「一期一会」が起こる。
一方で人間には、意志という自然の調和を妨げるものがある。だからこそ型が必要で、様々な技芸では型稽古を中心とした鍛錬によって、意志や作為を削ぎ落とすことを徹底的に叩き込まれてきた。
それらの道に集まる者は誰もが平等で、肩書きも名前もない。そして、「道」は偶発的に生まれてくるものを大切にしながら、いのちのやりとりが行われる場となり、文化が生まれる場となっていった。
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方代さんの話からずいぶん逸れた。
「意志」なるものが如何に弱々しいものかは、人間生活のあちこちに齟齬として現れているし、手軽で楽なものにながされる人間の生き様を見ればすぐにわかる。
白黒つけたい、公明正大でありたいと思うのは素晴らしいことだけど、きっとそれは、人間の意志が弱いことを知ってるからこそであって、ある種の悪あがきとも言えそうだ。
人間の生き様はそんなところにはないと、どこかでわかっていながらも、悪あがきに頑張ってしまう人間に、方代さんの歌は「死ぬときくらいは、そのままでいいんじゃないの」と語りかけているようにも感じる。
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冬の三日月。金星が寄り添っている姿は格別に美しかった。
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