![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/27339836/rectangle_large_type_2_12736e13454b6d3df7332937bdcc15ec.jpg?width=1200)
英語が話せる子にしたいなら〜言葉以前のコミュニケーションの大切さ〜
昨年9月から、オーストラリアに留学中の長女。
2月から始まったオンライン授業にもすぐに慣れ、忙しそうですが、楽しそう。
渡豪前に集中的に英語学習していた成果があったのか、英語が通じなくて困るという話もあまり聞くことなく(もちろん、いろいろ課題はありそうですが)、さっさと現地に馴染んで、英語の夢を見るのは当然、今や日本語のワードが出てこない〜と曰っているくらい(笑)
高校1年の末っ子に、オンラインで英語を教えたり、渡豪直後、大学の担当教官に熱烈アタックして、教官の息子さんに日本語を教えたりと、なかなか逞しく英語を活用しているようです。
自分でも留学までの道筋をnoteに上げてたので、こちらも参考までにどうぞ。
さてこの長女、なんで英語を話せるようになったのか。もちろん、彼女の努力が一番なのですが、親として整えた、準備したものは、何だったのか。
その辺りのことを、長女の時間軸を追いながら、書いてみようと思います。最後までお付き合いいただければ幸いです。
長女8歳まで
2001年から10年ばかり、夫と仲間たちで立ち上げたNPO法人横浜アートプロジェクトで、横浜を中心に国際学生映画祭や国際メディアアートフェスティバル、非営利コンサートシリーズなどを主催していました。
長女が2歳の頃に立ち上げたので、彼女が中学校に入学するくらいまで、我が家では、このNPOでの仕事が生活の中心でした。
国際と付いているイベントではあっても、中身はあくまでも家内制手工業。鎌倉の自宅を半分事務所にして、子どもを抱えながら助成金の申請や、来客対応、マネジメントから現場のディレクション、広報、招聘業務...とありとあらゆる仕事をマルッと抱えていました。
*もちろん、多くの優秀なスタッフやボランティアの皆さんの温かく的確な手がなければ、何一つやり切れなかったと思います。この場をお借りして感謝申し上げます。
そんな中で育つ子どもたちは、当然、仕事の中に放り込まれます。うちは子どもが3人いるので、生まれたての14日くらいは比較的安静にできましたが、その後は怒涛のように、イベントや何やらと仕事の渦に巻き込まれる、という生活。(ある意味、自宅出産は便利といえば便利でした 苦笑)
何と言っても長女は、一番上の子だけに最も仕事をよく理解して、大人顔負けの仕事っぷりで助けてくれました。
2007年に、「横浜メディアアートフェスティバル」というイベントを実施したとき。
欧米豪、中国、日本の各地から、プロから学生まで、あらゆるメディアアーティストを招致し、横浜の旧財務局(zaim)などを中心にメディアアート展を実施しました。
そのときの縁で、オーストラリアのメディアアーティストのエルさん(仮名)一家と仲良しになり、家族ぐるみの付き合いが始まりました。
長女10歳の頃
仲良しになったエルさんは、その後何度か鎌倉に滞在してくれました。
仕事なのか、仕事じゃないのか、全然よく分からないような私たちの申し出に、エルさんは嫌な顔一つせず、仕事とうまく都合をつけて1週間、10日と滞在してくれました。
申し訳ないことに、私はNPOの仕事や育児で毎日ドタバタだったので、エルさんには落ち着いたもてなしもできず、観光にも連れて行けない毎日。
もうすぐ帰国というある日、エルさんを、せめて鎌倉駅周辺だけでも観光に連れて行こうということになり、長女と私の3人で駅に向かいました。
その日も私は別件が入ってしまい、30分くらいで、英単語一つ分からない長女に「エルさんの相手しといて」とバサッとバトンタッチして、別の場所に行ってしまいました。
あとで聞くとかなり大変な思いをしたそうで、エルさんがトイレに行きたいというのが分からず、相当焦ったとか、一緒に喫茶店でお茶しようということになったんだけど、どうしていいか分からなくて、自分はただエルさんの飲んでいるコーヒーを眺めていた、とか、そのレベルの話が色々あって、恨めしそうな顔をされました...。
ちょっとやりすぎたかな、と多少反省もしたのですが、エルさん帰国後、長女は「絶対エルさんと話せるようになりたい!」と言って来ました。お姉ちゃんがそう言えば、下の2人も真似します。「私も、ぼくも!」と言ってきました。
こうなればしめしめ、です。何事も本人が必要だと思わなければ、身につきません。
長女15歳の頃〜高校受験〜
その後も、イベントなどがある度に、ウチにいろんな人種の人が滞在したり、食事をご一緒したりしました。オーストラリア人、カナダ人、アメリカ人、中国人、韓国人、台湾人、ケニア人...と様々で、みんなよく子どもたちを可愛がってくれ、真剣に遊んでコミュニケーションを深めてくれました。
そんなグローバルな雰囲気の家庭ではあったのですが、中学校3年生の夏休みに長女は、私にこんな質問をして来ました。
「ねえ、お母さん、なんでParisは、複数形なの?」
流石に受験生でこれはすごいな、と変に感心したくらい、彼女の英語はスペシャルどころか、一向に身についた様子が見られませんでした。
「受験生の夏休みでこれか。先が思いやられるな」と思ったことは事実です。しかし、そこで家庭教師をつけよう、とか、もっと厳しい塾に行かせようなどとは思いませんでした。
長女17〜19歳の頃〜大学受験から留学へ〜
諸事情あって一浪して高校生になってから、急激に彼女の英語の成績は伸びていきました。
大学受験の時、志望校に僅差で不合格となった長女は、以前から気になっていた留学を、本格的に検討し始めます。
私たちが手をかけるまでもなく、本人は自分でどうしたら英語が身につくか考え、あれこれ試し、シビアにセルフマネジメントしていたようでした。
そのあたりから、長女の英語は、使える英語、話せる英語へ成長し始めたようです。
長女が英語が使えるようになった本当のワケ
親から見たら、留学を本格的に検討し始めた高校卒業後の春、急に英語が使えるようになったように感じましたが、後から考えると、それには2つの理由があったように思います。
1つ目は、当然ではありますが「留学」という具体的な目標ができたこと。
そしてもう1つは、彼女のコミュニケーションの要求を刺激し、「ジワジワ」上達させた以下の環境です。
言語のコミュニケーションができる前に、非言語のコミュニケーションの世界で、どうしたら相手の言ってることがわかるか、自分の言いたいことが伝わるか、真剣に向き合う機会があったこと。
語学はもちろんなのですが、どう感じているのか、どう考えているのかを感じ合うことは、言語以前のコミュニケーションの部分(非言語)でもあります。
世界各地からウチにやって来る、様々な分野の人たちとの交流の中で、長女は、まずは非言語の領域で、相手の伝えたいことを読み取ることに必死だったのではないかと思います。
リアルな出会いが鍛えてくれる、非言語コミュニケーション能力
やはりリアルに会う交流、コミュニケーションの機会がなければ、言語以前の部分は身につかないのではないかと思います。
これは変な話ですが、相手が人間でなくても、動物や植物、自然でもいいのかもしれません。
言語以前の世界で、相手の伝えたいことや状況を感覚的につかもうとする。相手に自分の意思を伝えようとするーー。
それが、実を言うと、語学の上達にも大きな成果をもたらすのではないかと思います。