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感情の不思議

 ハイティーン~20代前半、勉強するのも遊ぶのも いつも一緒だった親友の死。最初は感情が動きませんでした。悲しい…とか 寂しい…と言う感情が 私の中から抜け落ちて ただ静かに受け止めている…と言う感じ。

 お通夜で お焼香の列に並び、祭壇のあるお部屋に入る直前…飾られているお写真を見る前だったのに突然 涙が溢れて来て、「どうして 今?しっかりしなきゃ~」と 思っているのにパッキン劣化(!?)で止まりませんでした。

 感情って不思議です。涙って どうして出るンでしょう?悲しい時にも寂しい時にも 嬉しい時にだって出る涙…。
 ♪~涙の数だけ強くなれるよ…とメロディーに乗せたシンガーソングライターもいるし、青春スポコンドラマでは「涙は心の汗だ!」って言ってたけど、 涙スイッチって 感情レベルがいくつになったら作動するンでしょう?

 感情って意思と関係ないところで湧いて来るもののように思っているけれど、コントロールできることもあれば コントロールできなくて その感情に振り回されることもあるし… 神出鬼没。

 瞑想する時(毎日マジメにやってるわけじゃないけど…)、頭の中(思考)を空っぽにしたいのに 気になっている色々なことが浮かんで来ます。そんな時、湧いて来る 目の前で起こったことや感情(多くの場合ネガティブなこと)を 良いとか悪いとかジャッジしないで そのままを受け止めて俯瞰して見るようにして また何も考えないことに集中します。(簡単には集中できませんが…) 

 と言うことは、意思とは別に感情は勝手気ままに動いているけれど いつだって必ず(別の意識を使って)コントールできるはず。そもそも目の前で起こっているドラマ(現象)に意味はなくて、それに意味付けしているのは自分自身。自分の持つ概念が作り出しているもの。 

 例えば「約束の時間に集合場所に行く」時、私は多くの場合 早めに着くように設定します。私の友人知人の多くも同じタイプ(が多いはず)。それは 相手を待たせると申し訳ない…とか 交通網がしっかりしているので時間通りが可能な社会に暮らしているから。
 20年前のことですが(と言っても すでに21世紀に入ってからのこと)、街に電車がなくて バスが時間通りに来ることもなく、タクシーも簡単に拾えないキューバの首都ハバナでは お友達と約束した時間に着きたくても着けないこともあったし、当時のキューバでは携帯電話どころか 固定電話さえない家庭もあったので 遅れる…と連絡することさえできず すっぽかすことも すっぽかされることもあって、そう言う環境では ある意味 みんな時間に大らか…。遅れても 会えなくても カリカリすることも 批判することも少ないし、会えればラッキーなくらい…。そう、育つ過程で作られた概念で 人の捉え方は変わり、湧き上がる感情も違って来るンですよね。

 死は喪失感に繋がっている場合が多いけれど、地球上のどこかでは「これで辛い修行は終わりです。よく頑張りました~!お疲れ様~!」と ポジティブにお祭り騒ぎ(!?)するところがあると聞いたことがあります。

 ネガティブな感情に支配されると幸せからは遠退いてしまうけれど、そのネガティブな感情の存在でポジティブの存在が意識できる。ポジティブしか存在しないと比較対象物がないから ポジティブが どんなに幸せなことか…を感じることができないンですよね。健康な時は当たり前すぎて何も感じないけれど、病気になると健康の有難さが分かる…みたいな…。

 亡くなった親友は彼女の天命=カリキュラムを終え 十分に学び、この世でのお役目を終了させ 旅立ちました。思い通りにならないこともある制約の多い肉体を脱ぎ、 悲しみや辛さなどの痛みから解放され、これからはご縁のあった私達を見守ってくれるのでしょう。

 Kちゃん、楽しい思い出をありがとう。ゆっくり休んでね…。まだすぐじゃないと思うけど、私も いつか行くから また逢おうね…。そうそう、康太朗先生に逢ったら よろしくねっ!

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