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#131平和を求める祈り

自分がナニモノなのか、なんのために生まれて来たのか。
それがわからなくて苦しい思いをしていました。

ある時、偶然出会った言葉に、勇気づけられた
そんなことがありました。

1.たまたま出会った「ミサ」


それは、私が4年間通った大学のすぐ近くにある教会でした。

教室から見える、高く鋭角な三角形の屋根が印象的で、いつか行ってみたいなぁと思っていました。


とはいえ、「ガチ」の教会はキリスト教徒でもない自分にとって、足を踏み入れていい場所とは思えないし、もし入れたとしても、かなりハードルの高い場所でした(一応、信徒以外でもウェルカムのようです)。


大学を卒業してから、10年以上経ったある日のこと。ある方のセッションというか、プチトリップみたいなのに参加しました。その教会に行って、スピリチュアルなメッセージを受け取るというモノでした。


その日は、たまたたまミサが行われていたのですが、誰でも入ってよいということだったので、ワケもわからず参加したのです。


その時、可愛らしい絵と文章が描かれた、B6ほどの大きさのカードをいただきました。


そこに書いてある言葉は、誰のものなのかを知るのはかなり後になりましたが、「平和を求める祈り」と書いてありました。


2.「平和を求める祈り」


もう、お気づきかとは思いますが、「平和を求める祈り」とは、キリスト教の聖人の一人であるアッシジの聖フランチェスコという方の祈りの言葉、と言われています。


私は、「平和を求める祈り」の冒頭の部分に、大きな衝撃を受けたのでした。

3.「神の平和の道具」たること


「神よ、
わたしをあなたの平和の道具としてお使いください」


私は、このたった2行の言葉にこめられた、大きな「愛」に衝撃を受けました。


「愛」とは何であるか、は人それぞれだと思うのですが、私自身は「ありのままを受け容れること」と定義しています。

自分自身もそうですし、他者でもそうです。


「平和の道具」に自分を使う、ということは、無私の犠牲…というか、無私の奉仕というか、そういったコトに身をささげる、ということですよね。


私自身は、もちろん全くその領域には達していませんし、めざしてもいないのですが(←めざしてないんかい)、それでも、その「教え」というか、「祈り」によって、自分の生きる指針を見つけた、と感じたのです。


外でいろいろと良いことを言っていても、家の中では実行できない、ということがよくあります。


自分に対する「愛」、家族に対する「愛」を考えたとき、まずは自分、次に家族、をきちんと大切にする。それができてこその、他人への愛だな、と思うのです。


聖フランチェスコは、自らを犠牲にすることを選んだのは、それこそが自分のありのままの気持ちだ、と気づいたからなのだと思うのです。


聖フランチェスコという人は、ムスリムとクリスチャンに和解をもたらした人、というお話もあります。


どこまでが真実・事実なのか、はわかりませんが、聖フランチェスコは「そういう人」として伝えられています。


もう少し具体的に言語化すると
「その人がそこにいるだけで、癒しと許しが起きる」
そんな感じでしょうか。


私の中では、生きる上での大きな指針となっている言葉です。


今日はここまで。所要時間は14分でした。
今回も読んでくださって、ありがとうございました!

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