「アンベードカルの仏教」は明白に「大乗仏教」である
私はインド仏教復興運動の沙弥(見習い僧侶)をさせていただいております。先日、ある知り合いに「沙弥を名乗るとカッコ悪い」と言われましたが、別に恰好をつけても大して意味はないので。
さて、本題に入りますと、インド共和国初代法務大臣であるアンベードカル菩薩が復興させた現在のインド仏教について「インド新仏教」とか「新仏教運動」と呼ぶ人がいます。
Wikipediaでも「新仏教」と記されているのですが、私はこうした呼称に大いに異議があります。
「アンベードカルの仏教」とも言われる現在のインド仏教は明白に伝統仏教の範疇に収まる、大乗仏教です。今回はそのことについて触れさせていただきます。
「新仏教」とはどういうことなのか
そもそも、どうして現在のインド仏教は「新仏教」と呼ばれるのでしょうか?wikipediaからの孫引きになりますが、Gail Omvedtという学者が著書に次のように記しているそうです。
(本来ならばwikipediaの文章はあまり出典に用いたくないのですが、私の英語力の問題もあり、孫引きで失礼します。)
アンベードカルの仏教は見た限りでは、信仰によって受け入れられた仏教、すなわち帰依を行い、聖典を受け入れた人たちのものとは異なっている。このことは、その基礎からして大変明らかである。アンベードカルの仏教は、テーラワーダ(上座部)であれ、マハーヤーナ(大乗)であれ、ヴァジュラヤーナ(密教)であれ、これらの聖典を体系的には受け入れていない。そこで次のような疑問が明らかに生じてくる。「四番目の乗り物(fourth yana)であるナヴァヤーナ(新しい乗り物)、〔すなわち〕ある種の近代文明的に解釈されたダンマは、本当に仏教という枠組みのなかに含めることが可能なのだろうか?」
こういう類の批判は日本仏教の関係者からも見られます。
要するに「アンベードカルの仏教は本来の仏教ではない!」というものです。
一方、「新仏教」という言い方には反発もあります。というのも、インド仏教の信者の多くはヒンドゥー教の教義において「人間未満」の存在として扱われた元不可触民からの改宗者であるからです。
私の戒師で現在インド仏教復興運動の最高指導者である佐々井秀嶺上人は次のように述べられています。
すなわち日本仏教徒乃至は世界仏教徒のいう“新仏教徒の信仰云々”のその新仏教徒たる言葉呼称それ自体すでに差別であり問題である。大乗法菩薩法をもって標榜する日本仏子達は何故同体大悲の温情をもって考えることをしないのであろうか。仏教徒に本来新旧の差別などはない。日本にかつて平民、新平民という言葉呼称があった。新平民という昔の部落階層の民衆を指し、一般の普通の平民に対し差別呼称の言葉として呼ばれていたことを思い出す。同体大悲の目をもって見るならば、本来人間民衆に対する新平民なる呼称などあろうはずはない。(佐々井秀嶺「『ブッダとそのダンマ』再刊によせて」太字は引用者)
同じ仏教徒なのに「新仏教」と呼ぶのは、やや差別的なニュアンスがあります。実際、「本当に仏教という枠組みのなかに含めることが可能なのだろうか?」等と言う人もいるわけですから。
しかし、このインド仏教は明白に伝統的な仏教の枠組みの中に含まれます。決して、戦後になって出来た新興宗教では、ないのです。
インド仏教は伝統仏教である
そもそも、アンベードカル菩薩は昭和31年(西暦1956年、仏暦2499年)10月14日、36万人の不可触民の民衆と共に仏教へと改宗しました。それまでのインドの仏教徒は国勢調査の数字を見ても「自称仏教徒」が各地の州に多くても百人程度存在するような程度であったようです。
従って、インド社会では「新しい宗教」のように仏教が認識されたのは、或いは止むを得なかったのかも、知れません。が、この「集団改宗式」の先導を務めたのはビルマ仏教の長老であり、つまり伝統仏教の様式によって仏教へと改宗したのです。
伝統仏教の僧侶によって「仏教徒」への改宗を認められたのに、それを「仏教徒」と認めないのは、差別でしょう。
「いや、彼らは仏教の理解が出来ていないのだ!差別から逃れるため、形だけ、伝統仏教の僧侶により改宗したのである。」
等という人がいれば、それこそ詭弁と言うもの。
日本の仏教の檀家だって、形だけお坊さんを葬式や法事の時に読んで、意味も判らないお経を聞いている人、かなりの割合に上るはずです。
いずれにせよ、伝統仏教の檀家として普通に暮らしている人を恰も新興宗教の信者のように扱うのは、失礼でしょう。同様に、伝統仏教の僧侶の先導で改宗した人を「新仏教」等と言うのは大いに問題があります。
仏教では法脈を重視します。伝統仏教の法脈を継いでいる現在のインド仏教は、明白に伝統仏教です。
アンベードカルの教義は“特殊”か?
現在のインド仏教が「新仏教」と言われるのは、アンベードカル菩薩の著書『ブッダとそのダンマ』を始めとするインド仏教の教義が、一見すると「伝統仏教とは違う!」と見えてしまうことも、あるかもしれません。
よく言われる「現在のインド仏教と伝統的な仏教の違い」としては、次のようなものがあります。
・輪廻転生を認めない。
・超自然的な力を認めない。
・仏陀を社会改革家として捉える。
アンベードカル菩薩自身が「仏教は科学的であり、合理的である」と言っていたので、多くの仏教徒は「え?これって、普通の仏教じゃないじゃん!」と思ってしまうのも、止むを得ません。
しかしながら、これは「仏教は科学的」というアンベードカル菩薩自身の言葉が独り歩きして、やや誇張されたイメージが広まっているように思えます。
梵天や龍の存在も信じている
アンベードカル菩薩は決して超自然的なものを全否定したわけではありません。というよりも、超自然的なものを信じつつ科学的な文明と調和することのできる唯一の宗教として、仏教を選んだのです。
アンベードカル菩薩が宗教的なものを求めていたのは、学生時代から一貫して共産主義を否定し、マルクスの「宗教はアヘンである」という一句を否定し続けたことからも明白です。
インド仏教復興運動において重視される「アンベードカルの22の誓い」には次の文言があります。
私はブラフマー、ヴィシュヌ、シヴァの信仰を持たず、それらを崇めない。
これをみるとブラフマー(梵天)等の神々の「存在」自体を否定しているようにも、見えます。しかし、それは誤りです。
アンベードカル菩薩の著書『ブッダとそのダンマ』においては、お釈迦様が悟りを開いた後仏教を布教するか躊躇しているときに、ブラフマーが現れます。
その時、ブラフマー・サハンパティ(世界の主・梵天)はブッダの心に生じた思いを知りこう思った。“誠にこの世は滅びる。完全なさとりを開いた人、世尊が何もせず、その教えを説こうとしないならば”(アンベードカル『ブッダとそのダンマ』)
そして、梵天の説得によってお釈迦様が仏教を弘めるようになった、と記されているのです。
「ブラフマー、この世の最も優れた者よ、私がその福音を世間に弘めないとすれば、それは私が困惑しているからだ」とブッダは答えた。
ブッダは、この世にかくも多くの不幸があるのに、旅放浪者のように手を拱き、そのまま見過ごすのは過ちであるのを認めた。ブッダはブラフマー・サハンパティの願いを容れ、教えを世界に弘める決意を固めた。(同書)
他にも「ナーガ王」(龍王)が登場するなど、日本においては「天部」(神々)とされている存在が『ブッダとそのダンマ』には出てきます。アンベードカル菩薩は決してこれらの存在を否定しているわけでは、ないのです。
では、どうして「ブラフマーの信仰を持たず、崇めない」と言っているのでしょうか?
実は仏教においては天界の神々はあくまで「衆生」であって、元から「崇拝」の対象ではないのです。
因みに、日本において「神仏習合」が出来たのも、仏教では神々の存在を否定はしないため「神社の神様?仏教でいう天部のことか。特に問題ないね。」って感じで仏教と神道が共存できた、というのが大きいです。(ただし、教義はあくまで仏教です。そもそも、神道は一部を除き体系的な教義がありません。だから多くの日本人が神社を参拝しながら「仏教徒」を名乗るのは、別にいい加減なのではなくて、正しい態度です。)
我が国の伝統仏教でも浄土真宗や日蓮正宗は「神祇不拝」(神社の神々を拝まない)という教義を貫いています。ですから、インド仏教のこの態度は別に不思議でも矛盾でも何でもないのです。
なお、アンベードカル菩薩が神々への礼拝を拒否したのは、インドにおいて神々への信仰とカースト制度の肯定が密接に結びついていた、という事情もあります。
「輪廻転生」への誤解
また、アンベードカル菩薩は輪廻転生を確かに否定はしました。しかし、それは「魂が永遠の者であって、それが転生すること」を否定したのです。
アンベードカル菩薩は『ブッダとそのダンマ』において、一方では「魂は転生しない」と書き、もう一方では「魂は消滅しない」と書いています。これを「矛盾」と感じる人がいるかもしれませんが、実はこれは仏教(特に大乗仏教)の基本的な立場なのです。
これは簡単に言うと「物質はない、魂もない、全ては無である、全て空である、しかし、その『空』が生きている!」ということになるのですが、理屈だけでこの問題を理解するのは甚だ困難です。
ここでは、生半可な仏教の知識だけで「アンベードカルの主張は間違っている!」というのは恥ずかしい態度であり、また「過去生の悪業、云々」を差別の根拠としてきたヒンドゥー教社会の被差別民の感情を考慮しない横柄な態度でもある、ということを指摘しておきます。
インド仏教は大乗仏教である
さて、アンベードカル菩薩自身が政治家であったこともあり、インド仏教に政治的な色がついているのは事実です。しかし、大乗仏教にある種の「政治色」がつくのは、必然なのです。
と、ここで誤解を招かぬように言っておくと、現在のインド仏教は明白に大乗仏教です。インド仏教復興運動最高指導者の佐々井秀嶺上人も真言宗智山派で得度された大乗仏教の僧侶ですし、アンベードカル菩薩の教義自体が大乗仏教なのです。
というのも『ブッダとそのダンマ』の「結語」は、大乗仏教における菩薩の「四弘誓願」と天親菩薩の『浄土論』からの引用とで締めくくられています。
なお、日本では大乗仏教は中国と日本だけである、みたいな誤解もあるようですが、チベット仏教も大乗仏教です。
大乗仏教の祖である龍樹菩薩はインドのナグプールの出身です。そして、奇しくもアンベードカル菩薩が仏教復興の集団改宗式を行った場所も、このナグプールなのです。
さて、大乗仏教は「自分自身の悟りよりも、衆生の救済を優先する」という特徴があります。
従って、政治家でもあるアンベードカル菩薩が大乗仏教に注目したのは、至極当然のことです。
ましてや、当時のインドはガンディーがヒンドゥー教の熱心な信者であったことを始め、政治家と宗教家の垣根は低い状態でした。そういう環境においてアンベードカル菩薩がお釈迦様の社会改革家としての側面を強調したのは、寧ろ当然のことであると思います。
写真:佐々井秀嶺上人の先導で仏教に改宗する人々。