「被娶職員」という概念
古代が一夫一妻制であったか、それとも一夫多妻制であったか、については未だに議論が分かれている。
通説では古代は一夫多妻制であったとしているが、『養老律令』では明確に妻と妾とを区別しており、それで一夫多妻制ということが出来るのか、という問題がある。
無論、妾のことを俗に「妾妻」という例があったため、それを根拠に一夫多妻であったという者もいるが、それは妥当であろうか?
例えば、仮に今、愛人を作っている男がいて、愛人のことを「妻」と呼んでいたとして、それは法に反する行為か単なる戯れのいずれかであるから、それを以て「日本は一夫多妻制である」等と云えないことは明白である。
あくまでも一夫多妻制か一夫一妻制かは法律を持って判断しなければならず、当時の法律である律令は明確に妻は一人であると定めている。
もっとも、これについて「律令は形骸化していた」という反論をする者がいる。特にその典型として挙げられるのがこの条文である。
これについて論者は「当初から空文化していた」と云うのであるが、それを言う者は「本音と建前」の区別を知らない愚か者ではないだろうか?
私はこの規定を極めてよく出来た規定であると感心するのである。
婚前交渉を一律に禁止すると、国家権力があらゆるカップルに干渉して大変なことになり、帰って秩序が乱れる。一方で「性の解放だ!婚前交渉に一切問題なし!」とすると、今度は望まない妊娠が激増してエライことになるであろう。
(因みに、現在でも堕胎で稼ぎたい医療利権複合体とその手先であるプロチョイスは、堕胎を増やすためには先ず望まない妊娠を増やさねばならぬ、という目的から「性の解放」論を唱えているのであって、プロチョイスの言う「女性差別反対」等建前に過ぎぬことに気付かなければ、何故プロチョイスの多くが女性差別の塊である性産業を擁護しているのか、理解できなくなる。)
つまり、どちらをとっても世の中の秩序は乱れる訳であるが、そこで律令国家の為政者は名案を思い付いたのである。
それは「もしも婚前交渉がバレたら強制離婚だぞ」と国民に教示した、ということだ。
要するに、婚前交渉をしても必ずしも刑事罰を下すことは無いが、それを堂々としちゃ困る、というのがこの条項の趣旨である。実に巧いこと出来た立法であると、私は思う。
この「建前と本音」を使い分ける人間の性質を見事に見透かしている律令の立法者は、妾の制度にもその趣旨を遺憾なく発揮した。
一夫一妻制の「建前」を維持しつつ、それを守らない男女も多いことが予想される場合、現代の日本では不倫を禁止する法律が無きに等しいが、律令では不倫をまず禁止した上で、妾の存在を許容して一夫一妻制の建前の範囲内でその関係を制御しようとしたのである。
しかし、相続において妾の相続分は妻の四分の一であり、また、貴族の場合は妻の子と妾の子とに明確な位階の差が存在するなど、妻と妾との「差」は歴然としていた。やはり「一夫一妻制の建前」は断固維持しようとしていたのである。
そのような妾を「側妻」等という事は不適切であろう。妻を大事にしない怪しからん男が妾を「妾妻」だの「側妻」だのと言ったところで、それは法律の趣旨を無視した戯言に過ぎない。
天皇にも妻である皇后以外に妾として妃や夫人、嬪が存在したことが律令に見えるが、律令は妃や夫人、嬪を「後宮職員」として皇后とは明らかに区別している。
ならば、妾も配偶者ではなく「職員」的存在であると見做すべきであろう。
個人的には「被娶職員」という呼び方を提案したい。「娶る」という言葉を使っているから妻と同格であると思われがちであるが、実際にはあくまでも「職員」の待遇であったのである。
そうした律令国家の立法者の行いが良かったのか、どうか、は議論があってしかるべきである。
もっとも、不倫相手に堕胎を強要しても「不倫も中絶も自己決定権だ!」というような者よりかは、遥かに賢明な立法であっとは思うが。まぁ、単に彼らは古代人未満の存在であるという事であるから、無視するべきであろうか。