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「倭の五王」を天皇に比定することは出来ない

 私は幼稚園の頃に日本神話の絵本を読み、小学生になると図書館にある歴史の本や岩波文庫版の『日本書紀』等を読むようになっていましたが、そうするとある謎が生まれてきました。
 歴史の本では、幼稚園でも読めるレベルの学習漫画にすら、「倭の五王」が載っています。しかし、その内容がどうも『古事記』や『日本書紀』の内容とは合わないわけです。
 小学4年生ぐらいになると、いろいろな本を読むことができるようになります。『日本書紀』もよみ下しであれば現代語訳に頼らず読めるようになります。そうすると、益々『古事記』『日本書紀』に記された歴史像と、通常の学者が言っている「倭の五王、云々」の歴史像とか、一致しないわけです。
 私は幼稚園ぐらいの頃から直感的に「倭の五王って、本当に天皇だったの?」という疑問を抱いていたのですが、小学4年生の頃に偶々、古田史学の会の会員であった伯母から貰った本を読み、古田武彦先生の倭の五王九州説を知りました。
 要するに、古田武彦先生は邪馬壹国の後継者が倭の五王であるという説で、それだと『古事記』や『日本書紀』の記述と一致しないのは当たり前です。そもそも別の政権について記しているのですから。
 そもそもこの程度の「仮説」は小学生でも思いつくことであって、実際、江戸時代から本居宣長らが主張していたことなのですが、通説派は無視しているわけです。
 今の学校では「倭王斎=允恭天皇」「倭王興=安康天皇」「倭王武=雄略天皇」のあたりまでは確実である、と教えています。もっとも、それでも矛盾がいろいろ出てくるので、ある通説派の学者は「『日本書紀』の内容は信用できないから別に一致しなくてもよい」等と公言しています。
 例えば倭王斎が允恭天皇であるとしましょう。『宋書』「倭国伝」によると彼は朝鮮半島の軍事権を主張しています。実際、当時の朝鮮半島で倭国が高句麗や新羅と激しく対立していたことは朝鮮半島側の史料である『三国史記』や「好太王碑」にも記されていることです。
 が、『日本書紀』ではそもそも允恭天皇が中国と関係を持った記事が一切ないのです。というか、『日本書紀』では中国に使者を送ったと記されているのは応神天皇と雄略天皇だけで、しかもこれらの記事の年代は『宋書』「倭国伝」とまったく一致しないうえに、応神天皇は高句麗経由で使者を送ったと記されており、高句麗と対立していたとする「倭の五王」とは全く違うのです。
 その上、允恭天皇の葬儀には新羅の人たちが心から悲しんだ、と記されていて、当時の大和政権はむしろ朝鮮半島の国々と良好な関係であったことが明記されています。
 ここまで記述内容が違うのに「同一人物である!」と強弁するのはオカシイでしょう。
 通説派は『日本書紀』が信用できないとか、或いは『宋書』も信用できないとか、色々と理屈を捏ねるわけですが、ハッキリしていることは『宋書』「倭国伝」には『魏志』「倭人伝」のような行程記事がなく、つまり倭王がどこにいたかは明記されていないわけです。
 にも拘らず、『宋書』「倭国伝」に記されている「倭王」が大和にいたということを“前提”にするのは、大いに瑕疵のある議論だと私は考えます。


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HINO
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