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『大日本帝国憲法』と『日本国憲法』における「主権」概念の違い

 学校教育では「『大日本帝国憲法』では天皇主権だったが、『日本国憲法』では国民主権になった」と教わります。一方、「『大日本帝国憲法』は天皇主権の憲法ではない!」と主張する人もいます。

 また、学校の教科書を見ても「『大日本帝国憲法』の時代には天皇主権説と天皇機関説の間で論争があった」というような記述があります。文字だけを追っていると混乱しかねない状態ですが、その背景には「主権」という言葉の意味を巡る混乱があります。

 確かに戦前から『大日本帝国憲法』は「天皇主権」の憲法だという人は、いました。しかし、そこでいう「主権」の意味は『日本国憲法』における「国民主権」の用例とは全く異なるものであったのです。

「主権」という言葉には3つの意味がある

 まず、そもそも「主権」とはどういう意味でしょうか?世界で最も権威があるとされる『ブリタニカ国際大百科事典』から引用された「コトバンク」の内容を再確認してみましょう。

元来「至高性」をさす観念で,フランス国王の権力が,一方ではローマ皇帝および教皇に対し,他方では封建領主に対し独立最高の存在であることを示すものとして登場し,その後近代国家の形成と発展の過程で各種の政治的背景において実にさまざまな意味合いで用いられることになるが,今日実定法上も用いられている主権観念として重要と思われるのは次の3つである。 (1) 国権ないし統治権自体の意味での主権。「日本国の主権は,本州……に局限せらるべし」とするポツダム宣言8項がその例で,ここでは国民および国土を支配する権利というほどの意味である。 (2) 国権の属性としての最高独立性の意味での主権。日本国憲法前文3段に「自国の主権を維持し」とあるのがその例である。 (3) 国家統治のあり方を終局的に決定しうる権威ないし力の意味での主権。国民主権とか君主主権とかいわれる場合の主権観念がそれで,日本国憲法前文1段および1条にいう主権がその例である。

 これを見ると、一口に「主権」といっても

(1)「統治権」

(2)「独立権」

(3)「憲法制定権力」

の、3つの意味があることが判ります。コトバンクにも書いてある通り、『日本国憲法』における「主権」は(3)の意味です。

『日本国憲法』の「国民主権」は“憲法制定権力”

 そのことは『日本国憲法』の前文を見ると判ります。前文第一項は次の通りです。

 日本国民は正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民と協和による成果と、わが国全土にわたって自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないようにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は国民の厳粛な信託によるものであって、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基づくものである。われらはこれに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。

 ここでは、まず第一文で「主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する」と、国民主権が憲法成立の根拠であることを明確にしています。従って、ここでいう「国民主権」とは「国家統治のあり方(=憲法)を終局的に決定しうる権威ないし力」つまり「憲法制定権力」が国民にあるという意味です。

 また「国政は国民の厳粛な信託によるものであって、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する」ことを「人類普遍の原理」としていますが、これは社会契約説という思想に立脚していることを示しています。

 そして、この社会契約説に反する「一切の憲法、法令及び詔勅を排除する」と明記している以上、「主権者」である国民にとって「憲法」の上位に「社会契約説」がある、ということです。

 このような、憲法の上位規範を「根本規範」と言います。

 もっとも、多くの場合において「根本規範」は「人類普遍の原理」や「自然法」と言った抽象的な概念であり、広義の憲法(Constitution)の一部を構成するものではありますが、殆どの国においては明文化された「憲法典(成文憲法)」(Constitution cord)とは違い、法的拘束力を持った規範であるとは考えられていません。

 簡単に言うと「『日本国憲法』の第○○条に違反しているから無効!」と言う判決が下ることはあっても、「人類普遍の原理に反するから無効!」と言う判決が下ることは、まずないのです。

 とは言え、建前としては「人類普遍の原理」とやらによって政治をしていますよ、この『日本国憲法』も「人類普遍の原理」に反するものではないですよ、と言うことになっています。

『大日本帝国憲法』の天皇は「統治権の総攬者」

 それでは『大日本帝国憲法』ではどうだったのか、というと、戦前から「天皇主権」という言葉は使われてはいましたが、それはあくまでも「統治権」という意味での主権であり、「憲法制定権力」という意味での主権の帰属先については議論がありました。

 というのも、『大日本帝国憲法』第4条では次のように記されているからです。

天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬シ此ノ憲法ノ条規ニ依リ之ヲ行フ

 この規定を見る限り、天皇陛下は確かに「統治権(sovereignty)の総攬者」ですから、その意味で「天皇主権」と言えないこともないとは、言えます。事実、天皇機関説の美濃部達吉も天皇陛下について便宜上「主権者」と呼んでいることもありました。

 一方、國體学者の筧克彦先生は「主権」という欧米流の憲法学の用語は『大日本帝国憲法』には当て嵌まらない、と論じています。

 それに対して、上杉慎吉らは「天皇主権説」を唱えて天皇陛下の権限が超憲法的なものであると主張しました。

 そもそもここでいう「統治権」は「此ノ憲法ノ条規ニ依リ之ヲ行フ」とあり、あくまでも「憲法」の下位に位置するものですから、少なくとも「憲法制定権力」的な意味合いでの「主権」は天皇には帰属しない、と解釈するのが妥当です。

 すると、次に問題になるのは「憲法制定権力」が天皇にないとするならば、どうして明治天皇は『大日本帝国憲法』を制定できたのか、ということになります。

帝国憲法の根本規範は「皇祖皇宗ノ後裔ニ貽シタマヘル統治ノ洪範」

 「天皇主権説」の論理構造はシンプルです。

「天皇陛下が『大日本帝国憲法』を制定したのだから、その帝国憲法を根拠に天皇の大権が制限されるのはオカシイ!」

 一見、一理あるように見えます。この主張に従うと、例えば『大日本帝国憲法』第55条の次の規定も何ら天皇を拘束するものではない、ということになります。

国務各大臣ハ天皇ヲ輔弼シ其ノ責ニ任ス
凡テ法律勅令其ノ他国務ニ関ル詔勅ハ国務大臣ノ副署ヲ要ス

 この規定を見ると、天皇は国務大臣の「輔弼」(助言)によって大権を行使し、その命令には国務大臣の「副署」が必要なはずです。しかし、天皇主権説論者によると、天皇は国務大臣を無視して政治をしてもよろしい、ということになります。

 ですが、そのような解釈は『大日本帝国憲法』第4条の規定と明白に矛盾します。天皇機関説の方が筋が通っているのです。

 では、明治天皇はどのようにして『大日本帝国憲法』を制定したのでしょうか?憲法制定権力以外に『大日本帝国憲法』を制定した根拠はあったのでしょうか?

 それは『大日本帝国憲法』の一番最初にある「告文」をみると判ります。

皇朕レ謹ミ畏ミ
皇祖
皇宗ノ神霊ニ誥ケ白サク皇朕レ天壌無窮ノ宏謨ニ循ヒ惟神ノ宝祚ヲ承継シ旧図ヲ保持シテ敢テ失墜スルコト無シ顧ミルニ世局ノ進運ニ膺リ人文ノ発達ニ随ヒ宜ク
皇祖
皇宗ノ遺訓ヲ明徴ニシ典憲ヲ成立シ条章ヲ昭示シ内ハ以テ子孫ノ率由スル所ト為シ外ハ以テ臣民翼賛ノ道ヲ広メ永遠ニ遵行セシメ益々国家ノ丕基ヲ鞏固ニシ八洲民生ノ慶福ヲ増進スヘシ茲ニ皇室典範及憲法ヲ制定ス惟フニ此レ皆
皇祖
皇宗ノ後裔ニ貽シタマヘル統治ノ洪範ヲ紹述スルニ外ナラス而シテ朕カ躬ニ逮テ時ト倶ニ挙行スルコトヲ得ルハ洵ニ
皇祖
皇宗及我カ
皇考ノ威霊ニ倚藉スルニ由ラサルハ無シ皇朕レ仰テ
皇祖
皇宗及
皇考ノ神祐ヲ祷リ併セテ朕カ現在及将来ニ臣民ニ率先シ此ノ憲章ヲ履行シテ愆ラサラムコトヲ誓フ庶幾クハ
神霊此レヲ鑒ミタマヘ

 これを見ると、明治天皇は好き勝手に『大日本帝国憲法』を制定したのではなく、あくまでも

皇祖皇宗ノ遺訓ヲ明徴ニシ典憲ヲ成立シ条章ヲ昭示
皇祖皇宗ノ後裔ニ貽シタマヘル統治ノ洪範ヲ紹述

したのであり、あくまでも皇祖皇宗の「遺訓」や「統治の洪範」を根本規範として成立したことが判ります。

 従って、明治天皇と雖も「皇祖皇宗の遺訓」に反するような憲法の制定は出来なかったということであり、天皇には実は憲法制定権力はなかった、或いは、限定されていた、ということになります。

国務大臣は天皇陛下の意向に「拒否権」を行使できるのか?

 そうすると、天皇陛下の大権はあくまでも「皇祖皇宗の遺訓」「皇祖皇宗の統治の洪範」の下位にある訳で、極端な話、臣下が「皇祖皇宗の遺訓」「皇祖皇宗の統治の洪範」を理由に天皇陛下へ反逆することも可能となってしまいます。

 実際、日本の歴史においては天皇陛下に反逆する権力者は少なくありませんでした。承久の乱に至っては、鎌倉幕府が天皇陛下を流刑にしてしまっています。

 ですが、『大日本帝国憲法』では同様のことは認められているのでしょうか?

 言うまでもなく、『大日本帝国憲法』は日本が再び承久の乱のような戦乱に見舞わられないように制定されました。第3条では次のように定められています。

天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス

 これは天皇陛下には全面的な免責特権がある、という意味です。天皇陛下が何をしても法で裁くことはできません。代わりに国務大臣が責任を取ります。

 しかし、国務大臣と天皇陛下の意見が不一致なこともあり得ます。その場合、国務大臣は「天皇陛下の命令だから」と言って嫌々でも陛下の命令に「副署」する必要があるのでしょうか?

 天皇主権説では「そもそも、国務大臣の副署は不要!」という、超シンプルな答えになりますが、それが成り立たないことは既に述べました。

 天皇機関説の場合はどうか。実は、これまたシンプルな回答なのです。

「その場合は、国務大臣を辞任するべき。」

 これが、美濃部達吉による回答です。理由は「その国務大臣は天皇陛下の信任を失っているから」です。

 よく天皇機関説を左翼の学説だと誤解している方もいますが、美濃部達吉は枢密顧問官として最後まで『日本国憲法』の制定に反対した学者であり、国務大臣による天皇への忠誠を大前提としていたことを忘れてはいけません。

「天皇機関説」と『日本国憲法』は両立しない?

 ところで、今の公民教科書を見ても「『大日本帝国憲法』では天皇機関説と天皇主権説が対立していた」という記述はあっても「天皇機関説が正しかった」とまで踏み込んではいないどころか、むしろ「天皇主権説」の方が正しいと読めるように書いている者もあります。

 今でも一部の学者は「絶対天皇制」という言葉を使っています。言うまでもなく『大日本帝国憲法』は絶対憲法制ではないのですが。

 実は、これにはあるからくりがあります。

 『日本国憲法』は『大日本帝国憲法』の改正によって成立した、と言うことになっています。

 これを「天皇主権説」の側から見てみると、話はシンプルです。

 主権者が天皇から国民に代わりました。GHQによる圧力があったとはいえ、旧主権者である昭和天皇もそれに同意ました。

 完璧です。『日本国憲法』成立に何の瑕疵もありません。

 が、これが「天皇機関説」だと実は、トンデモナイ矛盾が起きるのです。

 『大日本帝国憲法』は「皇祖皇宗の遺訓」によって成立しました。しかし、『日本国憲法』は「国民主権」によって成立しています。明白に『大日本帝国憲法』の根本規範とは矛盾するのです!

 これを「昭和天皇も同意していたから」という理屈で済ませることは、出来ません。何故ならば、天皇機関説だと昭和天皇は「憲法制定権力」を持っている訳では、無いのですから!

 この矛盾を回避するためか(占領下なので詳細な動機は不明ですが)、美濃部達吉は枢密院で『日本国憲法』を採択する際、欠席しました。天皇機関説の立場から、美濃部は『日本国憲法』そのものに反対したのです。

 一方、逆の選択をしたものがいました。美濃部の弟子の宮沢俊義です。

 宮沢俊義は戦前までは師である美濃部に従い「天皇機関説」だったのですが、『日本国憲法』成立の前後になんと「天皇主権説」に転向してしまうのです。

 そして、宮沢俊義は戦後憲法学界の権威として君臨したので、教科書や専門書、解説書に至るまで多くの書物はその影響を受けているのです。

 しかしながら、実は『日本国憲法』成立の問題点は単に『大日本帝国憲法』と「根本規範」が異なる、と言うことだけではありません。

 あまり知られていないことですが、実は『日本国憲法』は『大日本帝国憲法』の改正手続きをきちんと踏まえずに成立したのです。

 そして、宮沢俊義はそのことを説明する理論もきちんと編み出していたのですが、その話をするとこの記事の主題から逸れるので、今回はここで終わることとします。

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日野智貴
ここまでお読みくださり、本当にありがとうございます。 拙い記事ではありますが、宜しければサポートをよろしくお願いします。 いただいたサポートは「日本SRGM連盟」「日本アニマルライツ連盟」の運営や「生命尊重の社会実現」のための活動費とさせていただきます。