「源平藤橘」の一角・橘氏という氏族

 歴史に少しでも詳しい方は聞いたことがあるであろう言葉の一つに「源平藤橘」と言うものがあります。

 これは、日本を代表する四大氏族である源氏・平氏・藤原氏・橘氏のことですが・・・この中で「橘氏の存在感が薄い!」と思った方はいないでしょうか?

 源氏と言えば源頼朝源義経はみんな聞いたことがあるでしょうし、歴代征夷大将軍の多くは源氏です。平氏にも平将門平清盛と言った著名人が揃っていますし、鎌倉幕府の北条執権家や最近『新九郎、奔る!』で注目を集めている北条早雲も平氏の一員を名乗っていたことは、歴史マニアの間では知られているでしょう。

 藤原氏もみんな藤原鎌足藤原道長の名前ぐらいは聞いたことがあるでしょうし、歴代の摂政と関白も豊臣秀吉と豊臣秀次以外は全員藤原氏、旧華族にも藤原氏が沢山、今この記事を書いている私も藤原氏、と、少し調べると藤原氏だらけです。

 ところが、橘氏となると・・・少なくとも藤原道長や源義経級の超有名人は、いないようです。(実は結構有名人もいるのですが。)

 実は、これにも理由があります。橘氏は藤原氏との権力闘争に敗れ、そして、ただ敗れただけでなく(平氏も敗れましたが存在感はありますよね?)、存在すらも消し去れたのです。

実は楠木正成公も橘朝臣なんです!

 最初に、橘氏の著名人を紹介しておきます。

 一番有名なのは、何といっても楠木正成公でしょう!実は、楠木家の本姓は「橘朝臣」なのです。

 「橘朝臣」は「氏族の名称」(本姓)で「楠木」は「家族の名称」(名字、称号)です。

 また、「親孝行の神様」と呼ばれている宝蔵神社前宮司の楠本加美野先生やその長男の龍宮住吉本宮前宮司・楠本行孝先生、龍宮住吉本宮神職・楠本忠正先生は、楠木正成公(大楠公)の長男・楠木正行(小楠公)の子孫です。

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(宝蔵神社食堂にて。左が楠本加美野先生。右が私。)

 楠木正成公の三男の楠木正儀卿の子孫が、一般社団法人楠公研究会代表理事の山下弘枝氏です。

 このように、探せば橘氏の人間も残っているのですが、それならばどうして源氏や平氏、藤原氏程に橘氏の存在感が無いのでしょうか?

 それには歴史的な背景があります。

橘氏三代目「民衆を無視する政府なんか倒せ!」

 橘氏の初代は、橘三千代と言うパワフルな女性です。

 橘三千代は県犬養氏という氏族の出身ですが、美努王という皇族の妻となります。そこで子供も三人産まれて幸せで優雅な生活を・・・とは、なりませんでした。

 なんと、皇族の夫と離婚して藤原不比等と再婚します。そこで生まれたのが、あの光明皇后です。

 前夫の美努王の死後には「橘宿禰」の姓を賜りました。つまり、自分で新しい氏族を作ってしまったのです。

 ちなみに、光明皇后の娘である孝謙天皇(称徳天皇)は橘三千代の孫娘ということになります。母方の祖母の影響を称徳天皇もうけていたのかもしれません。

 さて、橘三千代の死後、橘氏を継いだのは前夫との間の息子たちでした。

 長男の葛城王は母親が作った橘氏を継いで「橘諸兄」を名乗ります。この時に橘氏は「宿禰」から「朝臣」に昇格しています。

 橘諸兄は今の総理大臣に当たる左大臣にまで上り詰めます。しかし、その頃から藤原仲麻呂らが貴族の私腹を肥やす法律を推進し、それに反発した橘氏は藤原氏と対立するようになります。

 そして、橘諸兄の死後、遂に長男の橘奈良麻呂が「大仏作りのような無駄な事情に予算をつぎ込む前に、民衆の生活を救え!」とクーデターを起こそうとします。

 彼の主張には何百人もの人が共鳴し、大規模なクーデター計画が練られましたが、あまりにも大規模過ぎて事前に発覚してしまいました。

 三代目にして、橘氏は衰退の兆しが表れたのです。

藤原氏を怒らせてしまう橘氏

 橘奈良麻呂の死後も橘氏はしぶとく頑張ります。

 ある者は外交官となり、ある者は皇后となり、ある者は学問で出世をし・・・政争で敗れたとはいえ、彼らは真面目に頑張りました。

 この努力が報われていれば、平清盛の死後も平氏のネームバリューが落ちなかったように、橘氏の存在感は現代まで保たれていたでしょう。

 しかし、橘氏はどうも、真面目過ぎる氏族なようです。

 ある日、藤原基経が「関白になりたい!」と言い出しました。それを聞いた橘広世は関白就任を阻止しようとします。

「関白と言うのは霍光(前漢の重臣。皇帝を廃位にするほどの権勢を誇った。)と同じ称号ではないか!認める訳にはいかない!」

 それを聞いた藤原基経は激怒、橘広世を処罰しようと宇多天皇に圧力を掛けましたが、菅原道真が諫めたので処罰は免れました。

 しかしながら、これで矛を収める藤原氏ではありません。それから約百年近くの時を経て、橘氏は事実上フィードアウトされます。

藤原道隆「橘氏の公卿がおらんから余が代表だ!」

 さて、各氏族の代表者を「氏長者」といいます。

 特に藤原氏や源氏、平氏、橘氏のような有力氏族の氏長者は、氏族のものを従五位下(貴族の最低ランク)に推挙する権利を持っていました。これを「氏爵」といい、その氏爵をする権限を持っている人を「是定」と言います。

 つまり、氏族の中から貴族にふさわしい人間を「定める」仕事であり、氏族代表ですね。当然、普通は「是定=氏長者」です。

 そして、是定は氏族の人間を天皇陛下に対して推薦するのですから、半端な身分ではいけません。「公卿」と言う、概ね従三位以上の上級貴族であるべきです。

 が、ある日、橘氏の公卿がいなくなってしまいました。

「我が一族の公卿がおらん!どうしよう!」

「氏長者に任せたらええやろ。」

「いや、いくら氏長者でも公卿で無ければ陛下相手に氏爵の推薦が出来ないぞ?どうする?」

 そこへやってきたのが、藤原道隆。

「では、余が橘氏の氏爵を行う!」

「いや、あんたは橘氏ちゃうやろ!」

「余は祖母が橘氏であるから、お前たちの親戚のようなものだ。それともなんだ?橘氏から貴族を出さなくてもいいのか?」

「あ、すみません!よろしくお願いします!」

と言う感じで、何故か藤原氏の道隆が橘氏の是定(代表)になるという無茶苦茶な事態になりました。

 以降、橘氏から公卿は数百年誕生していません。南朝正統論に立つならば、先述の山下弘枝さんのご先祖様である楠木正儀卿が399年ぶりに南朝の公卿になりましたが、それは数少ない例外で、その後も橘氏の公卿は少ないのです。

橘氏自体は今も続いている

 こうして、氏族を代表する是定すらも藤原氏に取られてしまった橘氏は、極端に存在感の薄い勢力となってしまいました。

 もっとも、橘氏の長者がいなくなった訳ではありません。橘氏長者の家は薄家として存続しましたが、家名通りの存在感となってしまい、最後は貴族粛清を推進していた羽柴秀吉によって亡ぼされます。

 なお、豊臣秀吉は朝廷の腐敗に憤っていたためか、貴族の粛清を推進しまくりましたが、このことが豊臣政権崩壊の理由になることに気付く前に亡くなってしまいました。

 江戸幕府は豊臣政権とは正反対に、貴族たち(特に藤原摂関家)を利用して権力を握りました。

 さて、藤原氏の長者でもある関白九条幸家は「そう言えば、橘氏の氏長者が秀吉に粛清されて以来、断絶されていたなぁ」と気付きます。そこで彼はいいことを思いつきました。

「おい、信濃小路宗増!」

「何でしょう、ご主人様。」

「お主は長年、余の家によく仕えてくれた。褒美を取らそう。」

「ありがたき幸せでございます。」

「褒美はな、橘氏長者の地位じゃ!」

「え?は?わ、私は源氏でございますぞ?」

「そんなこと関係ないわ。余が橘氏じゃと言えばそなたも明日から橘氏じゃ!」

 こうして九条家の子分であった源氏の信濃小路宗増が橘氏だと言うことになり、橘氏長者の地位を継承します。もうこの頃には、橘氏は完全に藤原氏の傀儡になっていました。

 明治維新後、藤原氏や源氏はもちろん、平氏の人間も華族になっているのですが、橘氏の華族は登場しませんでした。

 このように、すっかり存在感は薄くなってしまっている橘氏ではありますが、消えてしまったわけでは無く今でも続いています。

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