母を想う。
母の死からほぼ1ヶ月が経つ。
もう死んだこと自体は悲しくはないが、何か胸につっかえたものがある。そして、喪失感と孤独感はまだ残ってる。
ここは熊本の田舎ではあるけど、夜など、不気味なくらいに静寂を極めているように感じることが多くなった。これが“母親ロス”なのかもしれない。
母が死ぬ前に、ショートステイ施設から会うようにと連絡があって、施設の事務所から目が届く部屋で寝てる母を見舞った。
母は、戸惑いつつ部屋に入った俺を、二つの眼を開いてハッキリと見ると、顔を歪めて、スッと一筋、涙を流した。そして、口を開けて、喉を振り絞ったように「あ…あ…」と何か言いたそうだった。
その姿を見ると俺も泣けてきたが、「元気を出せよ。また弟を連れて来るからね」と母に抱きつくようにして耳元で囁いた。
あの時、母は俺に何を言いたかったのだろう。「ごめんね」か「ありがとう」か、それとも「さようなら」か。
今、考えると、最初にそのことを思う。
時間が経つということは心の最良のクスリであって、母の死に関する諸々のことは、薄皮を剥ぐように忘れて来ているとは思う。
ただ、自分という存在自体を問うことが多くなっている。
思えば、これまで、とにかく失敗と挫折が多かったように思う。受験、就職、結婚と、多くの失敗と挫折を経験して、挙げ句の果てに、脳出血を起こして片麻痺の身体となった。第2級の身体障がい者となって、両親のいる実家に帰って来て、熊本地震の後、親父に続いて母親の介護で、この不如意の身体を酷使することになる。
俺がどうしても考えてしまうバカな思いの一つに、今まで、こんなに失敗と挫折を繰り返す人生を送って来たなんて、俺は、本来なら、生まれてきてはいけない人間だったのではないかということがある。もっと悲惨な人生を送って来た人は山ほどいるだろうが、これは俺が勝手に考えることなのである。
それを考えると、母と3年前に死んだ父親の幼い頃からの言動が思い出されて、負の、憎しみの感情が湧いて来てしまう。
まだ俺が中学生くらいの頃、自立の話をしている時に、俺が「個性のある人間になりたい」と青いことを話すと、母は「個性なんていらんよ。皆と一緒でいい」と言った。
スポーツが得意じゃない俺は野球なんて見なかったのだが、母は常に「野球を見なさい。学校で友達との会話についていけないでしょう?お前も皆と同じように野球を好きにならないとダメです」と野球以外の番組を見せるのを渋った。
テレビで放映してた渥美清の「男はつらいよ」を、たまたま見てた時に、「こんな人間になってはいけません」とテレビを消された。
両親共に、俺をいわゆる“フツー”の人間にしたかったのだろう。その反動かもしれないが、今の俺は“フツー”の人間とは間違ってもいえないだろう。
このようなことをウジウジと考えていると、母親に対する思いも、やはり負の感情が大きく占めて来てしまうのだ。
寝たきりで要介護5の段階となってから、多くはヘルパーさんがやってくれたものの、下の処理も食事も、使える左手一本でやってきた。濃密な3年間を過ごしたと思う。
それだけに、急にこの世界から消えて、何か、独り、取り残されたような感覚が占めているのは仕方のないことなのかもしれない。
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