下筌ダム

片麻痺オヤジの社会派見学…。

大分・日田市中津江村の山深い場所にある下筌(シモウケ)ダムの小さな資料館だ。

ダムが出来るまで、この地は、梅雨の豪雨により筑後川が氾濫して、毎年、死者を含む多くの被災者を出していた。1953(昭和28)年の水害では、最大の、死者147人、被災者合計54万人となった。

そのために、国がダムを建設することを発表したものの、周辺の熊本、大分の5つの町と村、計483世帯が水没することがわかって移転を迫られることになった。

住民らはダム建設反対の大規模な運動を起こした。すでに半世紀前のことであるが、この地の村の有力者であった室原知幸氏(昭和45年死去)をリーダーに、法廷闘争を含めた、激しい実力闘争を展開することに。

ダムが建設される斜面に、反対する住民らは、監視のための見張り小屋を設け、これを中心に次々と集会所や宿泊所などを建設していった。その反対派の砦が「蜂の巣城」と呼ばれて、当時のマスコミを中心に大きく騒がれたのだ。

「法には法、暴には暴」を掲げて、反対派住民は、工事に入る作業員らに水をかけて抵抗、激しく揉み合い、負傷者多数となり、この水中乱闘は、「下筌水中合戦」「現代川中島の闘い」と大きく報道されたという。日本で初めての、国を相手とした住民による大規模な反対闘争だったらしい。

結局、「蜂の巣城」は、行政代執行により徐々に崩されていき、反対派の一部は最後まで抵抗し続けたが、水没地域の住民の生活までを保障させることで国側と和解に歩み寄り、その後、ダムは13年をかけて1969(昭和44)年に完成したのだ。

反対派リーダーの室原氏の「公共事業は、理に叶い、法に叶い、情に叶うもの」と訴える言葉は、以降の公共事業の在り方に大きな一石を投じることになったという。

コレらの資料等を展示してあるのが資料館「しもうけ館」だ。

当時、俺の父親は、国側の建設省で働いていたから、本人から聞いたことはないけど、多分、この闘争は知っていただろう。九州のトンネルをいくつか作ったと言っていたから、もしかしたら参加してたかも。

資料館で熱心に見学して回ってたのは俺だけだったから、受付のおじいさんがいろいろと教えてくれた。

こういう日本の住民運動は、ムラの倫理が働いて、予想される通り、時間が経つ程に、国、行政、政治、反対、賛成、裏切り、裁判と、内実はグチャグチャドロドロの世界となって皆疲弊してしまうが、リーダーの室原氏は、イデオロギーを抜きにして、官僚嫌いだったものの、飾り気のない野人のようなタイプで、人間的魅力に溢れた人物だったという。

下筌ダムの鉄板の文字は、室原氏が書いた「下筌ダム反対」の看板を建設省が写したもの。

もう絶版だろうが、松下竜一氏がノンフィクション本を書いている。


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TOMOKI
脳出血により右片麻痺の二級身体障害者となりました。なんでも書きます。よろしくお願いします。