「三島由紀夫VS東大全共闘 美と共同体と東大闘争」
一昨年に映画にもなった「三島由紀夫VS東大全共闘」討論の文庫版。
もちろんこっちが最初。昔、書籍で読んだ時は、両者とも何を言ってるのかチンプンカンプンで、まさに「観念界のお遊びなんだよ」(by全共闘)だった。
今は、最後に三島由紀夫が討論の骨子をまとめてくれてて(「討論を終えて」)、とりあえず理解は可能になった。
全共闘の学生が、この世界における自分らの立ち位置を、自分なりに言葉をもって理解しようとする意思はわかる。しかし、デマゴコスとか、アンガージュマンとか、プラグマティズムとか、プレザンスとか、アンフォルメルとか、哲学的と思える外来の言葉を数多く使って投げかけるのは、さすがは東大生というよりも、自分でその言葉に酔って相手を拒絶するようなトンデモないイヤミにしか思えない。
全共闘C(芥正彦氏)なんぞは、「だから自然というものはわからないのだよ、全然」と突然、人の話に割って入って来て、会場のヤジに対し、「関係立ったところからそれを逆転するのが革命じゃねえのか、バカヤロー!」と啖呵を切ったはカッコイイが、散々、三島由紀夫の立場を批判・否定しておいて、同じ全共闘の学生に“フーテン”と揶揄されて激昂し、「もう俺帰るわ、退屈だから」と赤ちゃんを抱えて(多分)、会場を後にするー。
ったく失礼極まりない。まさに俺のイメージする“団塊”そのものだ。「そんな考え、枠に囚われている証拠だ!」なんて怒られそうだが。
この芥氏は、現在も劇団の世界で活躍してるけど、参加した全共闘の学生が、その後、どういう人生を歩んだかで自分たちが希求した世界の価値がわかろうというものだろう。それは言いっこなしよ、かもしれんが。
体制に身を預け、古来のものをさらに深化させ、そこに美を見出すか、全ての関係を絶ってあくまで解放された自由にこだわるかの立場の違いはあって敵対し、時に殺し合おうとも、“言葉”(言霊)はそれを超えて両者の間に光を見せて共闘の余地を僅かながらも残す。人間、最後は言葉なのだ。
三島由紀夫の考察する革新とは、現実の政治に対しては、徹底した倫理性、秩序を厳しく要求するとともに、日本国の文化の母胎となる民族的心性の非倫理性非合理性の源泉を、天皇という概念に集中させることなのだ。それが三島美学でもあるのだ。
東大全共闘は、解放区の真の恐ろしさを知らずに、一部、いわゆる「左翼小児病」に侵されているように思う。
脳出血により右片麻痺の二級身体障害者となりました。なんでも書きます。よろしくお願いします。