【アニメ】「この世界の(さらにいくつもの)片隅に」

去年観て、図らずも涙ウルウルの感動だった“こうの史代”原作のアニメ映画「この世界の片隅に 」。それの長尺版「この世界の<さらにいくつもの>片隅に」(2019年、片渕須直監督)を鑑賞。

関連する別モノかと思ったら、40分もの新しい場面を追加したものだった。さらに原作に忠実になったのだ。

で、3時間超えとメッチャ長いのだが、最後まで退屈せずに通して観れた。何度観てもイイ映画はイイのだ。またもやウルウルきちゃったよ。

昭和19年(1944年)に、広島市から呉に嫁いで来た18歳の北條すず(旧姓・浦野)が、戦争末期の困難な環境にあって、多くの悲劇に見舞われながらも、工夫を凝らして、夫と逞しく生き抜く姿を描く。

普段はボケッとホンワカしてるけど、純で素直で芯が通ってて、一旦熱中すると周りが見えなくなる小ちゃな女性“すず”というキャラクターは、昭和の中年ジジイの心を深〜くくすぐるもんだ。ミスして「あちゃー」と顔をしかめる仕草がのんびりとした声も相まってめっちゃカワユス。広島弁もイイ。アニメなんだけどさ。夫の周作や幼馴染の水原じゃなくても、「すずは普通でいいなぁ。カワイイなぁ。柔らかいなぁ」とスリスリ抱きしめたくなるよ。

幼い頃は、想像力が豊かで絵を描くのが得意だった“すず”は、突然、知らない家にお嫁に行くことになって、戦況の不利で配給もままならない困難な事態となるが、特段、愚痴を言うでもなく、周りの環境を受け入れて、よく働き、道端の食べれる草を集めるなど、工夫を凝らして家族を支えてる。そして、優しくて笑顔を絶やさない。

そんな“すず”だけど、空襲で焼夷弾に混ぜて投下された時限爆弾の爆発によって、一緒に連れてた義理の姉の子供・晴美を亡くし、自らも右腕を失ってしまう。そこからいっとき、笑顔を失ってしまうが、人が死ぬことが日常となったこの世界を受け入れてる自分は歪だとの思いを持つ。

そして、敗戦で玉音放送を聴いて、これまでの戦時下における覚悟とは一体何だったのか?と怒って家を飛び出してしまう。つまり、戦争は正義でも何でもなく単なる一方的な暴力であり、人を歪に変えてしまうということだ。

それでも、絵を描く右手を失ってしまったけど、全てを受け入れて、自分を選んでくれた夫・周作に感謝しつつ、共に逞しく生きようと歩き出すのだ。

左手一本で時に口を使ってやるのは右片麻痺の俺と重なるね。

長尺版は、夫・周作がすずと結婚する前に結婚を考えていた呉の遊郭の遊女・白木リンとすずのシーン(コレですずの嫉妬や葛藤など、負の感情が加わって恋愛要素が増えた)をはじめ、実に250以上ものシーンが加えられているという。

戦争のシーン、広島の原爆関連も新たに加わって、より戦時下であることを強調したようになってる。すずと周作のキスや身体を重ねるシーンもあって興奮モノ。アニメだけど(笑)。

以下、グッと来たセリフ。

「この世界に居場所はそうそうなくなりゃせんよ。死んだら秘密も何も消えてなかったことになる。それはそれで贅沢なことかもしれんよ…。ウチも張り切ってご飯の支度しますかねぇ」

「過ぎた事、選ばんかった道、みな、覚めた夢と変わりやせんな。あんたを選んだんは、わしにとって多分最良の選択じゃ。すずはいつまでも普通でおってくれ」

「海の向こうから来たお米…大豆…そんなもんで出来とるんじゃろうなあ、ウチは。じぇけえ暴力にも屈せんとならんのかね」

「飛び去っていく、うちらのこれまでが。なんも考えん、ぼーっとしたうちのまま死にたかったな」

「周作さん、ありがとう。この世界の片隅に、うちを見つけてくれて。ほんでも離れんで、ずっとそばにおって下さい」

終戦記念日に観たい反戦映画だよ。


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TOMOKI
脳出血により右片麻痺の二級身体障害者となりました。なんでも書きます。よろしくお願いします。