マルジナリアで乗り越えろ。『マルジナリアでつかまえて』
書かずばよめぬ
写真はかの有名な山本貴光氏が著作された、『マルジナリアでつかまえて』『書かずば読めぬの巻』と第二弾、『世界でひとつの本になるの巻』(本の雑誌社)です。
『マルジナリアでつかまえて』の内容とある意味、逆の呪縛から解放されて、今まさしく副題の「書かずば読めぬ」に突入した話しを書こうとしている。
別のnote記事に書いた通り、僕の生家は“古本屋”なのだ、本を読む様になってからと言うもの、さまざまな不自由な少年期を過ごしてきた。
其れはきっと涙無しでは読めない記事になるであろう。(そんなわけは無い)
お気付きの通り“古本屋御法度”だ“古本屋”だからこその御法度があった、其れを破れば打首、張付けまでは行かないが、獄門(押入れ)や百叩きに近い罰はあった様に記憶する(真偽不明)。
一、本たる物どんな時も、開いて伏せるべからず。
伏せて置くと本の背の糊が外れたり頁に皺がいく
本これは商品であることを忘るべからず。(これは松岡正剛氏の教えに反する)
ニ、犬耳折る事を禁ずる
“犬耳”ドッグイヤーの事だ、頁の端を無碍に折って印をつける事を激しく禁ずる。
三、本にマルジナリアする事は言語道断、「以ての外」これも激しく禁ずる。
とある。
これは幼少期から叩き込まれ、幼稚園から帰ってきてからの絵本、図鑑などを読む際も厳しく禁じられ、“古本屋御法度”は教科書や参考書にまで厳しく言い渡された。
流石に中学になってからの教科書においての“御法度”は放免されたが(学校の先生と協議の上)、参考書は最後まで放免される事は無かった。
“ 御法度”の発布元は母であり、なんせ「本」=「商品」であり家の者が読んだ後すぐさま棚に並べる事しか頭には無い。そんな躾を受けた僕は五十を過ぎるまで、この行為に激しい罪悪感を覚えた、今でも若干ある。
今でも“ドッグイヤー”は今も先ずやらない、これは幼少の頃の想い出で祖父が煉炭で温めた焼きごてで丁寧にドッグイヤーを伸ばしていた記憶があるからだろう。
本への書き込み(マルジナリア)は、五十を過ぎて記憶力の低下に気づいてから始めた、デジタルで本を読む事もあるが、どうも記憶の定着が悪い「デジタル読書」本との距離感を感じKindleを使い始める、スマートフォンやタブレットより「本との距離感」が近くなるがと感じながらも、紙の本も記憶の定着率が悪い…と考えての最終手段的書き込みだ。
「本へガンガン書き込むねん!」の背中を押してくれた本が
松岡正剛著『多読術』ちくまプリマー新書
松岡正剛氏は「本はノートの様に扱え」とも言ってたと思う。
「三つ子の魂百まで」と言うが、五十過ぎで解放されてまだよかった。
そして加齢との戦いは始まったばかりだが、先ずは「マルジナリアで乗り越える」んだ。
2023年1月14日 加筆修正