つながりのなかで、明日へとこの手を伸ばすとき。
今日よりも、ほんの少しさきの未来を思い描ける時には、
必ずとなりには自分以外の“誰か”の存在があるものなのだなと思う。
「えんちゃんは、目標さえ決まれば、進んでいける人だよ。」
「友香の帰る場所は、地球でいいやん。笑」
基本的にネガティブでいつも出来る理由よりも、出来ない理由を探す。
口癖は〝むり〜〟。
中学校や、高校に入学したばかりの頃は、自分が大学に進学して、都市部に引っ越して生活をしていることなんて考えてもいなかった。
それを、漫画や、テレビドラマのストーリとして「素敵だなぁ」と思うことは何度もあったけれど、自分の人生の選択肢として持つことはなかった。
そんな夢物語のようなことを、大人のひとの前で口にしたとしても、きっと「(日常生活に、他者のサポートを必要とする)お母さんのことは、どうするの?」とたずねられるだろうし、「実家から通える場所にした方が、いいんじゃない?」という言葉に、自分がやってみたいことを主張することを、どこかしてはいけないことのように感じていたのだと思う。
10代のころの私にとっては、家族と自分の生活をわけること、自分の意思を優先して、家族や地元を離れることには大きな壁があった。
でも、
「塩谷は、どうしたい?」
母親の介護をする子ども」ではなく「しんどい家庭の生徒」でもなく。目の前にいる「塩谷友香」を、ただひとりの人間として、見て関わってくれた恩師や、多彩で多様な経験を持つ人との出逢い。
それがあって私はきっと、今の自分でいられているのだなと改めて思う。
一人では想像することも難しかった今よりも少しだけ先のことを「自分にも出来るのかもしれない」と思えて。小さなことでも、いつのまにか「自分にも出来ていた」に変えていくことが出来たのは、そこに自分以外の「人とのつながり」があったからだろうなと、思う。
日々、思い返すことも忘れそうになってしまう。当たり前のようにこの場所で今日を生きることが出来ているのだけれど、たくさんの人との出会いやお別れ、たくさんの支えがあって、初めて私はここに来ることができたのだ。
つらい過去を“乗り越える”ことはできないのかもしれない。それでも、自分の一部分にしていくことは出来るのかもしれないと少し思えるようになった。
私は自分の過去を自分の一部にしていく過程の中で、これまで偶然もらってきた「人とのつながり」を、これからを生きていくひとりひとりの子どもたちが、当たり前に得られる状態を国境関係なく、社会の中に創りたい。
それが、23歳の私の夢だ。
これからも悩みながら自分の決めた道を進む。
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