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#29 やれるようになった頃には当たり前になっている

新しい技術への憧れ

「あんな風にできたらいいな」と憧れて、新しいことに取り組むとする。
楽器やスポーツなどができるようになりたいと。
しかし、無事に納得できるレベルまで達したとき、当初の憧れが消えてしまっていることがあると思う。

例えばピアノを例にとってみる。

鳥が気持ちよさそうに空を飛ぶように、何の淀みもなく素晴らしい演奏をするピアニストに感銘を受けたとする。
そして「あんな風に弾けたら、めちゃくちゃ楽しいだろうなぁ…」
と羨望を抱きながらそうなりたいと願い、学び始めたとする。

うまくなるためには、練習、努力の積み重ねが必要だ。
その小さなステップを踏む過程では、なかなか上達の実感はない。
自分の中で小さな成長は起こり続けているのだが、変化に気づきにくい。

もちろん要所要所でふと成長を感じることもある。
しかしそれは、当初の憧れがこま切れに分割された、ごく小さな成功体験になっている。

そして何年か経ったあるとき、羨望の目で見ていたピアニストのように自分が成長できたとする。
それを迎えたとき、細かな成長のステップを踏んできた自分にとって、そこに憧れを手に入れた実感はなく、「当たり前の状況」になっているはずである。

つまり、追いかけて追いかけて、追いついたそのステージには、最初にそのようになりたいと願っていた自分はもうおらず、それが特別ではなく日常になっている自分が立っている、ということ。

ゆで蛙症候群(the boiling frog syndrome)という話がある。
🐸
蛙を熱湯の鍋に入れれば、瞬時に「熱い!」と反応して飛び出るが、水から徐々に温度を上げていくと、熱いことを感じられれず、ゆで上がって死んでしまう。
それと同じだ。
(蛙の話は比喩で、実際はゆで上がる前に反応して逃げるらしい)

これに気づいたとき、なんとも切ない気持ちになった。
気持ちよさを得ようとしても、瞬間的にそこに行けることはなく、行った頃にはもう、自分が変わってしまっていて、得ることはできない。


ゲームが味わわせてくれること

しかし、ゲームの世界は現実のルールとは違って魅力的だ。

この文章を書いている少し前、HD-2D版のドラゴンクエスト3が発売され、今話題になっている。
子どもの頃、ファミコンのオリジナル版をプレイしてとても夢中になった。

ドラゴンクエストは敵と戦いながら、主人公が成長していくロールプレイングゲーム(RPG)というジャンルのゲームだ。
ゲームの主人公に自己投影するプレイヤーは多く、そんな人たちは、主人公に自分と同じ名前をつけて、自分が冒険している気分になる。
もれなく自分もそうだった。

自分は最初とても弱い。
が、敵と戦い経験を積むことでどんどん強くなっていく。
少し前まで倒すのに苦労していた敵を簡単に倒せるようになり、成長が実感できる。
そのスピードは現実世界では味わうことができない、ものすごい早さだ。

僕はこの体験こそ、RPGに人がハマるポイントだと思っている。
現実ではそう簡単に成長できない。
成長は数時間で起こるようなものではないはずだ。
だがゲームの中の自分はそのルールから解放されている。

もしゲームの中で自分の強くなるスピードが、現実世界で格闘技を学びながら強くなっていく自分の成長速度と同じであるなら、そこに人は魅力を感じないだろう。

そのあり得ない成長の体験は人を夢中にさせる。
瞬時に憧れへ到達するゲームは気持ちがいい、そしてその世界に引き込まれてしまう。
だが踏ん張らなければいけない…。
僕らが生きる現実のルールはもうちょっとシビアだ。

加えて、小さい頃ゲームでの簡単な成長を体験してしまうと…、現実世界にも影響すると思う。
成長のためにコツコツ努力が必要である事実を、体で理解できなくなってしまう。

「とっとと結果が欲しい!」でもそう簡単にいかない現実世界。
「成長って簡単なはずで、そんなに努力がいるって聞いてない」と感じる。
しまいには「やってられない」となる。
振り返ると自分はその傾向があったと思える…。


霞のような憧れとの付き合い方

現実の成長はなかなか厳しい。
成長は時間がかかるし、仮にそこへ行けたとしても、自分にとってそれは普通で当たり前のことになっている。

ゲームのように短時間で
「自分は成長した! こんなにできるようになって楽しい!」
と感じられれば、どれだけいいだろうかと思う。
気持ちがいいし、やる気が継続して湧いてくる。

しかし、時間がかかるからこそ、手に入りづらいからこそ、成長の先に行き着いた他者の姿に我々は憧れを抱き、それを追いたくなるのだろう。
簡単に手に入っては、憧れも起きない。

これは困った。 

虹を見つけ、間近で見たいと苦労して近づくと、虹はなくなる。
でもまた虹を見つけるたびに、その美しさに見惚れる。
そんな感じだ。

うーむ。
どうするかと考えた。

あまり結果に期待しない、というのはどうだろう。
結果を焦らず、そこへいくプロセス自体に楽しさを見出し、噛み締め、味わいながら、進むこと。
辿り着いた先には何もないだろう、と半分諦め、目の前の行為を楽しむ目的に据える。

もし幸運にも、望んだ姿に行けたとする。
当初の憧れは捨てて進んできた。
期待もしていない。
そんな無欲な心境でいると、あるとき
「あぁ、実は自分は結構高いところまで登ってきたんだな」
とふと気づき、腹の底からじわりと喜びを感じることができるかもしれない。
随分地味で控えめな喜びかもしれないが。

それはまあ、思いがけずに得られるラッキーボーナスだ。
あるかもしれないし、ないかもしれない。

先が長いことを続けるのは、なかなか難しい。
諦めつつ、しかし止まることなく、楽しみながら一つ一つ進めていきたい。

虹までの長い散歩の道中に喜びを見出していきたい。

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tomohonote
最後まで読んでいただいてありがとうございます。