私たちはどのくらい知っているんだろう? 【G・ベイトソン著 精神の生態学ー知識の量を測ること】
娘「パパって、どのくらい知っているの?(HOW MUCH DO YOU KNOW?)」
娘との会話の記録をそのまま著書にのせる人類学者グレゴリー・ベイトソン。その対話の中に「知識」というものの本質があらわれてきます。
「一つの知識」が意味をなすには
ベイトソンは
父「脳の重さが2ポンドだとすると、だいたい四分の一くらいで、半ポンドくらいかな」
と応える。つづけて、
父「そういえば友達のお父さんがね、お父さんの方が子どもよりたくさんのことを知っていると言っていたんだ。そこで、蒸気機関を発明したのは?ときいたら『ジェームズ・ワットだ』って答えた。でも不思議な事に気づいてしまったんだ。なぜかって、それはお父さんの方が子どもよりたくさんのことを知っているなら、なぜジェームズ・ワットのお父さんが蒸気機関を発明しなかったんだろうね?おかしいよね?」
娘「私知ってるわ。それは蒸気機関を発明するためにはその前に沢山のことを知っておく必要があるもの。だからでしょう?」
父「そうだね、つまり一つの知識っていうのは他の知識に織り込まれて初めて意味を持つんだ。」
一つの知識を得るということは、候補を半分にするということ。
ここで、ベイトソンは二十の扉を使った問題を考えます。
二十の扉とは、「20の質問をして、相手の思い浮かべるものを当てる」というゲームです。
ゲームで一つ質問をするごとに、考えられうる候補は半分になりますよね。
例えば、頭に思い浮かべていたものが「うさぎ」であったとき、
「それは、生き物ですか?」という質問に「はい」と応えるはず。そうなったとき、頭に思い浮かべていた候補が半分になります。
さらに、「爬虫類ですか?」と続けると、「いいえ」と応えるはず。そこで、「爬虫類ではない」となって候補がさらに半分に。
この時点でもとあったところの四分の一になるはずです。
知識についての知識
知識の量をはかる、というと主に思い浮かぶのは「テスト」で記憶していることを再現すること、なのかもしれません。
ですが、「知識についての知識」も計り知ることができます。
例えば二十の扉で考えれば「知り方」についての知識は、質問によって候補がどのくらいに減ったのか、増えたかを定量的に測ることができますよね。
以前、下記の記事でご紹介した「計測」に関して。
どのようにして私たちは知識を計り知ることができるのか。
この「私たちはどのくらい知っているんだろう?」というシンプルな問いだけでも考えさせられますね。