老子の名言厳選7選!生きるのが楽になる!
さて今回は、↓こちらで全文翻訳、超訳、解説した「老子道徳経」の中から、日常に役に立ちそうな「名言」をピックアップして解説したいと思います。
1,足るを知る(者は富む)
これは老子の言葉の中でも一番有名と言っていい「老子道徳経」の第33章の言葉で、日常的にも使われたりしますが、現代の日本で「足るを知りなさい」と言うと、
「たとえ少なくとも、これで十分だと思って感謝しなさい」とか「自分の分をわきまえて欲しがりなさんな」というニュアンスが強いように感じますが、
実際に「老子道徳経」を翻訳してみて、原文(の書き下し)は、「足るを知る」だけではなく、「足るを知る者は富む」と続いていて、前後の文脈から読み取ると、
「神(タオ)はあなたの特性に合わせて、ちゃんと、あなたに必要な物は与えてくれている。それに気づいて生かせるかどうかは、あなた次第。
あなたが持っているもの、あなたの特性は、あなたが最高の自分を生きるのに、十分なものがあるはずだよ。それに気づいて生かせるものは富む。豊かに生きられる。」という意味だと感じました。
2,道の道とすべきは常の道に非ず。
これは「老子道徳経」の第1章の冒頭に書かれている言葉ですが、
「道」というのは「タオ」のことであり、
「こういうものがタオです。と説明できるようなものなら、それは本当のタオではない」という感じで、
「タオ」というのは、一般的に「神」と言われている存在自体ではなく、その「神」がこの世界を創造するために生み出した「エネルギー」であり「場」であり、「摂理、法則」であり「物質の根源」であるもの。
そしてその「タオ」の性質というのは、「常に変化し続ける」ということ。
だからこそ、「タオとはこういうものです」とは説明できない。
それと同じように、私たち人生や肉体や状況は常に変化しつづけるもの。
そこに「思考」で「この世界はこういうものである」と思い込んでいても、それは本当は常に変化し続けている。だから固定された思考に執着せず、常に「川」の流れに身を任せるように、あなた自身も変化し続けるのが良い。
3,其の無私なるを以て非ず耶、故に能く其の私を成す。
簡単に訳すと「(聖人と呼ばれるような人は)その無私であることによって、逆に『私』というものを確立していくものだ。」という感じ。
「老子」の思想である「タオ(の摂理・法則)」は、「欲しがれば」手に入らず、「私が!」と我が強ければ達成できず、「自我」が強くなることによって、人は、その人本来の特性を生かせずに、その人として最高の生き方ができないと考える。
そもそも「タオ」は常に「全てを与え」、「全てを養ってくれる」存在。
いつでもどんな時も、「必要な物はすべて与えてくれる」。
だから、「私が頑張ってなんとかしないと!」とか「私が手に入れるんだ!」というような「自我」の頑張りは本来必要ない。
あなたが、あなたに与えられた能力、特性を見極めて、今現在の状況を冷静に見極めて、「じゃあ、今私には何ができるんだろう?」ということをコツコツとやり続ければ、あなたはあなたとして最高の人生を生きられるようにできている。そのためにあなたの「個性」が与えらているんだから。
4,上善は水の若し。水は善く万物を利しても争わず。
日本酒の名前にも使われている「上善水のごとし」。
「最高に素晴らしい人というのは、まるで水のように、万物に与えながらも、自らを誇って争うようなことが無い」という意味。
水は植物も元気にし、動物や人間にも命を与えながらも、誰に誇ることも無く、ただ常に流れ続けている。
それと同じように、人も、みんなに与えながらも、「私がやった」「ちゃんと感謝しろよ」なんて言わずに、ただ与え、争わないような人が「最高に素晴らしい人」と言える。
5,揣(きた)えて之を鋭くするは、長く保つ可からず。
「剣などを鍛えて、どんどん鋭くするのは、長く使えなくなってしまう」という意味。
剣などを、「切れ味を良くしよう!」と研いだり、鍛えたりすれば、確かに一時的に切れ味は上がるかもしれないが、どんどんと擦り減って、長く使うことができなくなってしまう。
それと同じように人も、「強くなる!」「すごい人になる!」なんて頑張り過ぎてしまうと、身体を壊してしまったり、筋肉を付けすぎて動きが悪くなったり、逆に本来の「本領」を発揮できなくなってしまう。
なにごとも「ほどほど」が一番良い。
6,寵辱、驚くが若し。大患を貴ぶこと身の若し。
「みんなが評価されること、批判されることをこんなにも気にしているのは驚くべきことだ。評価や批判を心配することを自分の本質より重要に思っているかのようだ。」という意味。
これは現代社会でも全く変わらずあることで、「◎◎映え」を追究し、SNSで「いいね狙い」をし、批判されることで徹底抗戦したり、まるでその「人からの評価」自体を、「私のこと」と勘違いしているようだ。
時には、「いいね!」のために、危ない場所で写真を撮ろうとして、落下して亡くなっている人までいる。「評価」が「命」よりも大切なのだろうか?
そんな「人から認められる」ことばかり追いかける人ほど、思ったほどは認められないものだ。
「自分がどう見られるか?」よりも、「私の本当の気持ちは、どう生きたいのか?」ということを追究している人の方が(あの「さかなくん」のように)、結局はみんなに認められるような人になっていくのに。
7,善人は不善人の師なり、不善人は善人の資なり。
「「良い人」は「良からぬ人」の先生であり、「良からぬ人」は「良い人」の生徒である」という意味。
例えば「賢い人」が居る。するとこの人は「あまり頭の良くない人」に勉強を教えることができる。
逆に「あまり頭が良くない人」が居るから、「賢い人」は先生になることができる。
この世界は、「賢い人」が居るから素晴らしいのではなくて、個人個人に「特性の違い」「差」があるからこそ、「先生と生徒」という関係性も生まれるし、活躍の場も生まれるのである。
世の中がみんな「賢い人」ばかりなら、誰も「先生」にはなれないし、「教える喜び」や「教えられて理解できる喜び」も生まれない。
「良い人」も「良からぬ人」も居るからこそ、それぞれの役割が果たせる。
社会でどのように評価されようと、全ての人の「価値」は等しいのである。
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