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何故文字が必要か


こんにちは、ともです

昨日から久々のnote復帰を致しましたが、何故そうゆう運びになったのか、こういった転換期の心情を記録に残しておきたいと言う備忘録が今日のnoteです。


さて、私は学生時代、noteというサービスはもちろんない時代でしたので、ただの大学ノートなどに日々の想い出や感情を記したのが始まりでございました。

そして、社会人になり少し経ってからnoteというサービスをしり、今に至る訳ですが、何にしても文字をしたためると言う行為に感じている私なりの見解を主に記します。
そしてそれが今回note再開の理由にも繋がる訳です。


自己対話

結論を申し上げれば、言葉を記す理由は
自己対話』をする為であり、
それを通じて、今向くべき方向を再確認することにあります。
感覚的には、狂った方位磁針を直すような感じです。(方位磁針って直せるんですか?笑)


それにもかかわらず、ここ2年弱の間、読書量も減り、多角的な対話も減り、このnoteすら離れていていた私ですから、大袈裟に言えば自己対話がほとんどできていなかったと思うと、ゾッとするのです。


もちろん自己対話や自己分析の必要性は頻度等は、個人差があるものでしょうから、その良否等を問うつもりはありませんが、私自身はコレが非常に大切な事だったのだと、やっと思い返して来たのが今日この頃なのであります。


言葉の精査

『自己対話』とは別な効用も感じています。
それが『言葉の精査』です。

精査という言葉が適切なのか不安なのも、ここ最近の私の言葉に対するリテラシーと不勉強が垣間見れる所ではありますが、
要するに、
「自分から発せられる言葉が汚くないか、言い回しスムーズか」等、
そういったところへの意識付けが高まる効用を感じるのです。


私自身、社会人経験の殆どが接客業でありましたから、日々多くの方とのお話の機会を頂くわけですが、ここ最近、なかなか自分でしっくりくる言葉が出てこずに、引っ掛かりを感じる事がとても頻発するようになってまいりました。

コレも単純に、日々の言葉や文字に触れる機会の減少、ひいては自身で言葉をアウトプットする筋力の低下によるものだと思うのです。


追い討ちをかけるように、私はYouTubeを見るのが非常に好きなもので、どうしても視覚と聴覚(共にインプットのみ)に偏ってしまっているもの要因と思い、最近は意識的にスマホを自室に持ち込まない様にしたりしています。


巷のビジネス書にも頻出する
「アウトプットとインプットのバランス」たるものが、欠落している状況なのでしょう。


まとめ

大きく分けてコレら2つの自身にとって重要なピースが抜けたまま過ごしたここ2年弱は、今思えば芯がふらついた日々だったのかもしれません。

またこのnoteいう場をお借りして、自己研鑽と皆様の感性との交流を図れたら嬉しく思いますので、今後とも優しい目で見てやって頂けますと幸いです。

こうして本日も文字をしたためることでの、心の棚おろしができました。


ここまでお読み頂いた貴方様、ありがとうございます。
どうか良い夜をお過ごしください♪


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