信じるということについても
先日のトレーニングの振り返りなどで共に居る事と併せて「信じる事」についても少し触れていたのだが、これがなかなか一筋縄では身に付けられない事を最近身に染みて感じているので、改めて記しておこうと思う。
「信じる」
これには大きく2つの対象があると思っている。
それは『相手』を信じると、『自分』を信じるだ。
まず『相手』を信じる事を考えてみる。
もうそのまんまだと思うのだが、「相手の能力や変化を信じる」ということだ。例えば親が子供の靴紐を結んであげるというのはよくある事だ。けれど子供ができる所までじっくりと信じて見守るような姿勢を言うのだと思っている。(もちろん、最初は難しいので教えてあげたりする事もあるとは思うが)
これは大人になってもそうで、上司が部下の作業を見て、部下の考えなどを聴く前にあれやこれやと口出しをしてしまうなんて事はよく聞く話だが、これは逆に部下を信じる事が出来ていない状態なのだと思う。(決して放任主義とは違う。言うべき事は言うべきだし、援助が必要であれば手を貸す姿勢は見せるべきだ)
頭に浮かんだ日常の例を挙げてみたが、何となく感覚は分かると思う。けれどともすればその時の感情に振り回されて相手を信じきれない事が私にはまだまだ多い。
結局問題は自分の中の感情のコントロールなのだとは思うのだが、ではなぜ感情をコントロールしてまで目の前の人を信じるのか。
これは持論だが、
コーチがクライアントを信じないと、まずそもそもお互いの「信頼関係」が生まれない。自分の事を信じていないコーチにクライアントが自分の本音を口にするかというと、なかなかそれは難しいと思う。
そしてこれはコーチングに限った話ではないが、相手を信じないとその相手は「自分には能力がない。1人では変わらない。」という思考を持つようになってしまうのではないかと思う。逆に信じられてきた人は「自分でもできる。変われる。」という自信を少しずつ自分で構築していけるのではないかと思う。
だからこそ、目の前の人(自分以外の人)を『信じる』か『信じないか』の選択があるのならば、間違いなく『信じる』という関係性を選ぶべきなのではないかと思い、感情のコントロールに立ち向かっている今日この頃である。
(特に不快な事をされた相手を信じるのはなかなかに難しい)
そしてもう一つ『自分』を信じる。
これを先に書くべきだったのかもしれないが、これが出来ないと『相手』を信じる事が難しい。
「私は相手を信じる事ができる人間だ」と『自分』を信じないといけないからだ。
「私は周囲の全てが信じられない」という人が、心底親身になって相手の話題や問題と共に居る事は不可能だ。少なくとも僕にはそんな切り替え(使い分け)はできない。
だからまず
『自分を信じ』→『相手を信じる』
というステップになるのだと思う。
自分を信じるときには、外的要因は少なく感情に振り回される事は少ないのだが、今まで信じる事をしてあげていなかった自分の心の扉は錆びきってガチガチに固まっていてなかなか開き難い。これが厄介なのだ。
言葉では先述のように理解しているが、肝心の自分の心の扉がなかなか開かない。
私は怖い。自分を信じると人を傷付けたり迷惑をかけるのではないかとか、変な人に思われるのではないかと。
けれど考えてみれば、今の自分でも人を傷付ける事はあるし、迷惑なんか掛けっぱなしだし、変人だし…。(というかいっその事こと飛び抜けた変人になりたいとも思っている)
我ながら自分の事を過大評価してたもんだなと少し笑えてくる。
このnoteを自己管理も含めて活用させて頂いているお陰で、少し気が楽になっている部分はある。
自分の心の扉がスムーズに開くように少しずつ錆を取り除きながら、『信じる』ことを深めていきたいと思う。
そしてこんな風にまだまだふらふらとしている私ではありますが、もしご興味があればコーチングを受けてみて欲しいです。
こいつよりは自分は能力があるなと自信を持って帰って頂ける自信はあります。笑
では今日もよい1日にしましょう、まずは自分を信じて!