楽しちゃ意味ない、汗かくしかない
当たり前のことに今更ながら気づいた、
というよりこの真理の及ぶ範囲が拡大した話
コミュ障が肩で風を切る時代
そもそもコミュ障とは
コミュ力って一体なんなんだろう、これは僕がずっと考え続けていることだ。
もちろん辞書的な意味はちゃんとあるし把握している。
わからない。
これは非常に抽象的すぎる。
意思疎通とは何か?
コミュニケーションスキルが高いということがコミュ力が高いということであるのだろうが、どうやらコミュニケーションスキルとは理論・体系・言語化された意思疎通の方法・手法テクニックであるらしい。
本当にそうなのか?
正確にはwikipediaは辞書ではないのだが、辞書的な意味ではそうなんだろう。
しかし、僕たちの生きる現実世界は辞書では成り立ってない。行政や法律の世界はまだしも、少なくとも日常世界では辞書を遥かに凌駕するニュアンスによって言葉は支配されている。
「令和ロマンの娯楽がたり」が衝撃だった話
まだ見ていない人はぜひTVerで見てもらいたい。
内容をかいつまんで話すと天下取りと呼ばれる芸人には次に誰がなるのだろう。そもそも天下とは一体なんなのだろう。とういう話をしていたのだ。
そこで令和ロマンのくるまさんはオードリーの若林正恭さんのことをゲームチェンジャーと称した。
おっと待ってくれ、今回はオードリーがいかに凄いかといういつもの話ではない。もうしばらく今の世界の違和感について聞いてほしい。
お笑いの世界は今でもマチズモだった。有名賞レースの決勝進出者のほとんどは男性だし、そもそも何で女性のみの賞レースは存在するのだろう。女性をピックアップして取り上げなければならない取り上げるということはそれは女性がお笑いをしていることが異質マイナーであるということを示してしまっている。
そんなマチズモ的な考えの競争して勝つ、面白ければ構わないという世界に内部から一石を投じた存在が若林正恭さんと分析されていた。
「じゃない方芸人」「人見知り」「こっち側」
本人はそんなつもりはないと言っていたが、無視できないほどの勢力として確立されつつあるようだ。
こんなことを話している番組は他に見たことない、衝撃だった。
あとラジオオタクからしたらやっぱりれなち(山崎怜奈さん)は頭いいなあ。
武器になんかするなよ
この風潮は芸能界にとどまっていないように感じる。
自己紹介やプロフィールに陰キャや人見知りといったコミュニケーションに難がありますよと発信する人が増えた。
はっきり言おう、気に食わない
僕にとってはコミュ障は恥だと思っている。
勘違いしないでほしいが僕は多分コミュ障だ。人生においてだいぶ困っている。し、普通に直そうと努力している(改善しているかはわからないが)。だからこそ、コミュ障をファッションのように着飾ることに嫌悪感を感じる。本来コミュ障の開示なんて避けるようなものだ。
ここでまた擁護しているとなってしまうのかもしれないが、若林さんは自らコミュ障を話題にはあげない(例外はある、後述する)。若林さんはトークの延長線上であくまで盛り上げるために自らの特性を開示するだけなのだ。
決してコミュ障を武器にはしていない。
そこに漬け込んで一緒になろうとする。雑な言い方をすると売れようとする。
そのように膨れ上がった3軍の一群に僕は嫌悪感を感じているのだ。
日常世界でもそうだ、コミュ障は免罪符ではない。コミュ障であればどんな態度を、どんな行動を取っても許されるわけではない。
コミュ障を着飾るなよ。
こっちは恥ずかしい思いを、もどかしい思いを積もるほどして、何日もの眠れない堂々巡りの思考を繰り返し、頑張って話しかけて玉砕して、気を使って自ら離れて、そうやって改善して、やっぱりしてなくて、諦めて、でも諦めちゃだねだよねってまた頑張って。
(小休止)若林さんが自らの人見知りを吐き出した話
そんな若林さんだが、2つの場では醜い部分も含め、本音をオープンにした。
たりないふたりと若林正恭の無地note
どちらも今では有料コンテンツだが一見の価値がある。
純度の高い若林正恭をコンテンツとして提供してくれている。
いっておくが僕は金儲けは悪だとは思わない。金儲けが主にならなければ、売り手と買い手のパワーバランスが釣り合っていれば。
この二つのコンテンツは簡単にいって仕舞えば本音で話している。
あなたもこう思うことあるよね、社会の仕組みってクソよね。
僕も若林さんも読者のみんなも、社会の中で生きている。
デメリットが多かろうが社会の仕組みを利用して生きてしまっている。
これはあくまで僕の意見だし、若林さんが同じ意見かは分からないが言わせてほしい。
ただ社会で生きてしまっている以上、不満100%の表明で社会生活を続けるのは潔いとは思えない。それは現状の制度としても、心の健康としても。
これは僕の頑固なところかもしれないのだが、公共の設備、制度の恩恵を預かっている以上、不満はエンタメとして拡散するのではなく、然るべき手段で拡散するべきであると思っている。
それが筋であると考えているから、有料配信コンテンツや深夜枠で提供していたのではないだろうか。
心の健康に良くないという話はもっと単純だ。
反世間的主張を維持するのはかなり気が張るからね。疲れてしまう。
就活で感じたコミュ力への違和感
世間と社会とのズレ
これでも僕は就活生の端くれである。
まあ、志望業界的にはスタートダッシュで盛大に転けてしまったのだけれど(これは夏過ぎまで大学院に進むつもりだったという言い訳もあるんだけど、これもそれなりに物語になりそうなので気が向いたらnoteにしよう)。
この前初めて対面でのインターンシップ(事実上の会社見学会)に参加してきた。
その中である就活生の女の子の質問とその回答が印象的であった。
ここで大事なのはコミュニケーションを取れる人の部分である。
世間的なコミュニケーションを取れる人のイメージと、社会的な(少なくともこの回答を言った人の)コミュニケーションを取れる人のイメージが僕の中でリンクしなかった。
世間的なコミュニケーションを取れる人のイメージ
僕はまさにこの歌詞の逆をいく人が、世間的にコミュニケーション力のあると言われる人であるのだと考えている。
こうやって断定してしまうことは失礼かもしれないが、こういうキラキラした人がコミュニケーション力を持っているのではないかなと感じる。
会社の人の求めるコミュニケーションに関する考察
仕事は一人ではできないとおっしゃっていた。
人と協力していい仕事にしていくと。
この協力に上の歌詞のようなことは必要なのか?
行きたくもない飲み会にも参加しないといけないのか(申し訳ないが僕はメンツで選んでしまう)。
上司ってだけで敬わないといけないのか(これも現代っ子なのか)。
少なくとも僕は必要でないと思ってしまった、、。
会社に必要なコミュニケーションとは、いわゆる報連相のことではないだろうか。
ちゃんと報告する、連絡する、相談する。
僕の偏見かもしれないが、世間におけるコミュニケーション力のあるとされる人は一定数の割合で報連相ができない。言わなくせもわかるでしょを武器のように振り回す。それなのに何故か強気だから、こっちが悪者みたいに周りからは見られるしなんなら自分でもそう思えてくる。
僕は報連相のような技術は先天的な才能なんかではなく後天的に習得可能であると考えている。自分がそうだったからなんて暴力的な意見ははなから言う気はないが、僕もそのくちだ。
コツは、相手の立場に立つことではないだろうか。自分ならと考えるのではなく。
あの人は何を求めているのかな、こう言う言い方したら嫌がるかな、これは言ったらまずいよね、
徹底的に考える。
ここで自分ならと考えるのは落とし穴だ。
僕は常々世間と自分のギャップを感じている。そうじゃなくてもこの世に同じ人間など一人としていない。それが理解できないと他人の価値観を受け入れられなくなってしまう。だから自分なら嫌・平気と考えるのでなく、あの人はどう思うかなが大事となってくる。
態度もそうだ、目を合わせるのはなんかできないけど鼻あたりを注視すれば相手には悪い印象を与えずらい。唐突な出来事に驚いてそっけない態度になってしまったら、後で自分から話しかけにいく。
こんなできる人は無意識にやっていることを僕たちは努力してやっていくことが重要なんじゃないかなと。
技術の習得スピードにはもちろん差がある。
だから現時点で先述の技術を習得していないor未熟であることを僕は責める気はさらさらない。
しかし、コミュ障などと論点ずらしの言い訳をして社会の求めるコミュニケーションを放棄している輩には憤りを感じる。
一つは努力で改善しにくい感性の部分のコミュ障(このnoteの世間のコミュ力の部分)の話を社会集団としてのコミュニケーションが苦手な理由に流用しているパターン。
もう一つは世間のコミュ力をそのまま社会集団としてのコミュニケーションで使用できると誤解してしまうパターン。
特に後者は厄介だ。自分が間違っているかもしれないという思考を放棄してしまっているから。
何が言いたいかって言うと、
僕含め社会生活するコミュ障諸君、頑張って強く生きような
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