会食恐怖症の歴史(個人的考察)
こんにちは、ともです。
そもそもの話として、会食恐怖症の歴史の始まりはいつでしょうね?
私は現在44歳。3歳から会食恐怖症なので、
少なくとも40年前には存在しているんですよ。
(もっと前からあったかもしれませんが、自分しか知らないので…)
私が子供の頃は給食の完食指導が厳しく、
残すな、感謝しろ、という圧力が強かったのです。
おそらく40年前の教師、親は、
戦後の食糧が無い時代に生まれたか、
戦前戦後の食糧が十分ではない時代の人たちに育てられた人たちです。
食べ物を残すなんてありえない、腹いっぱい食べられることに感謝しろ、
というマインドなんですよね。
そもそも給食自体が貧困の中から生まれたものですからね。
私は人とご飯を食べられないけれど、
感謝の心はあるし、食べ物を粗末にしたことなどありません。
それでも、吐き気がしてどうしても給食を食べられず残すと、
教師は般若のような顔で対応してきました。
(私にはそう見えました)
食べ物を残すやつは非国民扱いでしたね。
それこそ戦時中の鬼軍曹みたいに非国民扱いするんです。
おそらく会食恐怖症というものが根本的にわからないのだと思います。
欲しがりません勝つまではとか、贅沢は敵だとか、
こういう世界観の人には理解しがたいのでしょうね。
そう考えると、国全体が貧困状態にあり、
給食がある程度の機能を果たしていたころは、
会食恐怖症は存在しなかった可能性がありますよね。
それが、時代が変わり、
給食が本来の機能を果たさなくなり始めたころで、
給食により貧困時代を乗り切ってきた人々が現役で活動をしていた時代、
という条件が揃った時に会食恐怖症は生まれたのかなと思いました。
ある程度の貧困が解消されても、
長年に渡って給食というシステムがあり続けた歴史があるので
やめることができないのかもしれませんね。
それでも今は教育する側の世代が変わって良くなってる気がします。
息子に最近の給食の様子を聞くと自分の時とは違うので驚きます。
今は食育なんて言ってたりしますが、給食の本来の目的ではないですよね。
意味の後付けなのかなと思います。
ただ、自分が親になって思うのは、
給食があるので食事の用意をしなくていいという楽さはわかりました。
お弁当の用意は面倒ですからね。
ここまで色々書いてきましたが、
会食恐怖症というより、給食の歴史になってしまいました。
ほとんど単なる私の想像なんですけどね。