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最終予選
「お題コンテスト」にサッカーワールドカップ最終予選というお題を発見しまして、書いてみたいと思います。
私がワールドカップの最終予選を見始めたのはドーハの悲劇で有名な1994年ワールドカップ予選からです。
1993年10月28日と1997年11月16日、この2つは私の世代から上のサッカー好きの方には忘れられない日ではないでしょうか。
■ドーハの悲劇:1993年10月28日
現在では本当に信じられないですが、この時、まだ日本代表はワールドカップに参加したことはありませんでした。
ただ、1992年の自国開催のアジアカップに優勝していましたし、Jリーグも開幕し、サッカー人気は社会現象となっていました。
93年5月にJリーグが華々しく開幕しましたが、当時は10チームでありながら、1stステージ18試合、2ndステージ18試合を水曜・土曜で
こなすハードスケジュールでした。日本代表も全員が国内に所属し、夏場の連戦など非常にハードなスケジュールで戦っていました。
都並さんの怪我で左サイドバックどうするかというのが大きな課題であったと記憶していますし、ドーハというのは夜も暑いと聞いており、
大丈夫かなと心配になっていました。
初戦のサウジ戦は引き分け、イランに破れ、後が無くなった状態でしたが、北朝鮮に快勝し、日韓戦にカズのゴールで見事勝利し、最終戦に臨みました。
結果はご存知の通り、ロスタイムに失点し引き分け、上位2チームに入れず、敗退となりました。
現在は4.5枠ありますが、当時は2枠のみ。世界的にアジアのレベルがもっと低い時代でしたので、仕方ないかも知れませんが、非常に狭き門でした。
フランス代表もワールドカップ予選で敗退しています。そのフランスを破って本大会に進んだストイチコフ率いるブルガリア代表の躍進も記憶に残っています。
■ジョホールバルの歓喜:1997年11月16日
ドーハの悲劇から4年後、チームは世代交代し、アトランタオリンピックに参加した選手たち、中でも中田英寿・川口能活を中心に戦っていました。
ただ、チームは中々勝てず、一時は最終予選敗退が見えました、何とかグループ2位に滑りこみ、アジア第三代表決定戦に進めました。
最終予選アウェーの韓国戦は負ければ終わりという状況で、見事2-0で勝利。アジア予選の中でこの試合が最大の転換点だったかも知れません。
この後、日本は一度も韓国と最終予選で試合をしていません。むしろその前の日韓戦(1-2で韓国勝利)が日韓戦のハイライトですね。
アジア第三代表決定戦は、中立地のマレーシア、ジョホールバルで開催されました。中立地ではあるものの日本のホームの様な環境だった記憶です。
対戦相手のイランはアジア強豪国の1つ。個人的にはサウジ、イラン、韓国、日本がこの時期はずっと強かった印象です。
試合は1点先制したものの、後半に立て続けに2失点し、また絶望の底に叩きつけられました。
ただ、この時の日本代表は勝負強かったですし、中田英寿のクロスから城彰二が同点ゴールを挙げました。
Vゴール方式(懐かしいですね)の延長に突入し、岡野が何度も決定機を外しました。途中絶体絶命のピンチがありましたが、相手も疲れていたのか、枠を外し事なきを得ました。
そして、中田の左足シュートのこぼれを、岡野がつめて、Vゴール!!!!!!!!!
現在の日本代表選手のうち、ドーハの悲劇をリアルに見ていたであろう選手は川島選手のみ。長友選手は7歳なので、恐らく寝ていたのでは。
また、旗手選手はジョホールバルの歓喜の5日後に生まれ。
今の多くの選手にとっては、ワールドカップは出て当たり前の大会と言われ、育ってきているのでしょう。
吉田選手が覚悟と言っていましたが、凡人では理解できないプレッシャーと戦い、ここまで来ています。
また森保監督はドーハの悲劇で実際に戦っていたメンバー。様々な声がありますが、外側にいる人間にできるのは、応援するだけですね。
次回のワールドカップでは参加国が増えると言われているので、予選の厳しさはもっと緩くなるかも知れません。
日本サッカーの歴史の重みを背負いながら、戦っている選手たちにエールを贈りたいと思います。