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『読みながら書く』 12

十二、『詩の誕生』について


“大岡   活字になった詩は永久に残ってしまうみたいな迷信がわれわれにはあるけれども、実はとっくの昔に生命を終えているのかもしれないということは考えたほうがいいのじゃないか。そう考えたとき、本なら本のなかに詩という形で印刷されてるものをもう一回生きさせる契機も、またそこから出てくるのじゃないか。これは死んでるから、おれはもう一回生きさせてやるぞ、ということが出てくると思う。”(大岡信・谷川俊太郎『詩の誕生』岩波文庫 12ページ)

“大岡   貫之の仕事が付け加わったことによって、それ以前の古代の詩歌全体の構造が、わっと変ったところがあるはずだ。そういうところが見えてきたわけね。それを考えていくと、われわれがいまあらためて紀貫之について考えるということは、どうやらそのことを通じて全体をかきまわし、もう一回新しい一つの構造体をつくるということになるらしい。”(同16ページ)

“谷川   僕がそういう意味で感動する詩は、そんなにたくさんはないのよ。その少ないなかの一つに、萩原朔太郎のいくつかの詩がある。僕が好きな朔太郎の詩というのは、彼が自分の感覚みたいなものを執拗に書いている一種の自意識過剰みたいな詩じゃなくて、彼が「のすたるぢや」という言葉で代表させているような、彼自身自分の意識がとうてい到達できないと知りながら常時感じているような、そういう世界を書いているものなんだ。”(同37ページ)

“谷川   『きりん』という雑誌が編集した「おとうさん」「おかあさん」という有名な二部作があって、「おとうさん」という巻の最初に二歳の子供の三行詩、というか言葉が載っていて、関西弁で、
   おほしさんが 一つでた
   とうちゃんが
   かえってくるで
というのよね。これは詩と詩じゃないものの淵にいるようなものなんで、詩の誕生を考える上でおもしろいと思うんだ。“(同43ページ)

『詩の誕生』大岡信・谷川俊太郎(岩波文庫)

私はこの『詩の誕生』という本を今年(2023年)の3月26日に買った。そのころ私は映画というものに「しがみついて」いて「映画を見る事が全てを包括した学びである」というように考えていたが、この考えを維持するのは難しく、事あるごとに「これはどうも違うのではないか」と感じつつ、「いや、違わない。というのも――」と延々と思考を巡らしていた。そういう状態が9か月ほど続いた、その最後の頃に、この『詩の誕生』という本を本屋で見かけたのである。読むうちに、「むりやり映画を観るのはやめましょうか」という納得のようなものが心中に生じ、私の「映画時代」は終わった。そのかわり以前より多くの時間を読書に費やすようになった。
衝撃的に面白かったわけではない。しかしこれは大した本だという感じは、立ち読みししている時から感じていた。谷川俊太郎は知っていたが、大岡信は顔が浮かばなかった。読み進むと、大岡信の言葉の鋭さに、爽快さと落ち着きを感じた。

本に印刷された詩はすでに死んだ詩なのではないか、その「再生」をする役割を担うのは読者なのではないか、という大岡の考えに触れて、ポールサイモン(アメリカを代表する音楽家・詩人)の「音楽は常に過去に向かって進行する」という謎めいた発言を思い出した。ポールサイモンがこの言葉を告げた相手はさだまさしであり、私もさだまさしのステージトークでこの言葉を知ったのだが、今までどうにも意味が分からなかった。
音楽は、常に、過去に向かって、進行する?

詩が詩人の中に見出されたときというのは、音楽家が楽曲を思いつき、ものにしたときに相当するだろう。詩が紙に印刷されたときというのは、音楽でいえば楽曲がレコード(CD)に吹き込まれ、プレスされたときに相当するだろう。そのとき、詩・楽曲は確かに、誕生したときの強力な生命をいくぶんか失っている、もしくは死んでいるのかもしれない。詩人・作曲家が最初に観た、強烈な、謎めいた「何か」が、詩あるいは楽曲という、パッケージ化可能なモノになって、詩集やCDに封入される。それは「何か」そのものではなくて「何かの痕跡」であるのかもしれない。
そしてその「痕跡」から「何か」をたどる事は、読者・リスナーに課せられた仕事であるのかもしれない。
と、このように考えても、ポールサイモンの言葉の真意はなお、分からない。
この言葉自体が「何かの痕跡」であるような気もしてくる。
大岡信の言葉はそれよりはるかに明瞭である。

(2023年6月20日)

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