『読みながら書く』 12
十二、『詩の誕生』について
私はこの『詩の誕生』という本を今年(2023年)の3月26日に買った。そのころ私は映画というものに「しがみついて」いて「映画を見る事が全てを包括した学びである」というように考えていたが、この考えを維持するのは難しく、事あるごとに「これはどうも違うのではないか」と感じつつ、「いや、違わない。というのも――」と延々と思考を巡らしていた。そういう状態が9か月ほど続いた、その最後の頃に、この『詩の誕生』という本を本屋で見かけたのである。読むうちに、「むりやり映画を観るのはやめましょうか」という納得のようなものが心中に生じ、私の「映画時代」は終わった。そのかわり以前より多くの時間を読書に費やすようになった。
衝撃的に面白かったわけではない。しかしこれは大した本だという感じは、立ち読みししている時から感じていた。谷川俊太郎は知っていたが、大岡信は顔が浮かばなかった。読み進むと、大岡信の言葉の鋭さに、爽快さと落ち着きを感じた。
本に印刷された詩はすでに死んだ詩なのではないか、その「再生」をする役割を担うのは読者なのではないか、という大岡の考えに触れて、ポールサイモン(アメリカを代表する音楽家・詩人)の「音楽は常に過去に向かって進行する」という謎めいた発言を思い出した。ポールサイモンがこの言葉を告げた相手はさだまさしであり、私もさだまさしのステージトークでこの言葉を知ったのだが、今までどうにも意味が分からなかった。
音楽は、常に、過去に向かって、進行する?
詩が詩人の中に見出されたときというのは、音楽家が楽曲を思いつき、ものにしたときに相当するだろう。詩が紙に印刷されたときというのは、音楽でいえば楽曲がレコード(CD)に吹き込まれ、プレスされたときに相当するだろう。そのとき、詩・楽曲は確かに、誕生したときの強力な生命をいくぶんか失っている、もしくは死んでいるのかもしれない。詩人・作曲家が最初に観た、強烈な、謎めいた「何か」が、詩あるいは楽曲という、パッケージ化可能なモノになって、詩集やCDに封入される。それは「何か」そのものではなくて「何かの痕跡」であるのかもしれない。
そしてその「痕跡」から「何か」をたどる事は、読者・リスナーに課せられた仕事であるのかもしれない。
と、このように考えても、ポールサイモンの言葉の真意はなお、分からない。
この言葉自体が「何かの痕跡」であるような気もしてくる。
大岡信の言葉はそれよりはるかに明瞭である。
(2023年6月20日)