『読みながら書く』 9
九、嫉妬は肩こりのようなもの
人間の歴史の中で、嫉妬という語で表現される精神的「しこり」は、古今様々なバリエーションを展開して、人間の生活を良くも悪くも複雑なものにした。旧約聖書の「カインとアベル」物語、エディプスコンプレックス、源氏物語の「六畳の御息所」、トルストイの妻のケース等々。
ある仏教系思想家の方が「嫉妬は汚らしい感情です。恥ずべき感情です」というような事を書かれていた。それは違うのではないか。
自分が嫉妬しているということは恥ずかしい事、汚らしい事だという考えに凝り固まるのは、よろしくない。それは「嫉妬心の発生」というごく自然な、珍しくもない現象を、自分自身からも他人からも隠ぺいしようとする事につながるからだ。また、隠ぺいは問題を大ごとにする。
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嫉妬は人間関係の特定の状態によって脳に起きる肩こりのようなものだと私は思う。肩こりが生じている事は恥ずべきことではない。たぶんそれと同じ頻度で脳に発生する「しこり」であると言えなくもない嫉妬は、なぜ汚らしいのか。それは「愚直さの礼賛」や「無垢さの礼賛」と同質の、安易な思い込みなのではないか。
肩こりが生じると、ストレッチをしたりアリナミンAを飲んだりして、それをやり過ごしつつ人は働く。それと同じように嫉妬もぼちぼちやり過ごして働き続けるほかない。どうしてもその環境がつらいという場合は、嫉妬の問題以外にもいろいろな問題が、その環境にはあるのではないか。そのようなときは「これはどうも運命の示唆である」と判断して、あっさりと別のところへ移るべきなのかもしれない。
(2023年6月16日)