ラオスから学ぶ人生を豊かにする非コントロール性
ラオスに住んだことがある人で、再びラオスに住みたいと思う人が少なくない。その理由に挙げられる1つとして、ラオス社会に生きやすさを感じ、日本社会の生きづらさを感じるようになった人も多いのではないかとも思う。どちらの社会もとらえ方によって良し悪しだが、その感覚はわかる。
生きやすさ、生きづらさの最たる要因は「怒り」や「不安」の感情による支配だと捉えている。ラオスには、日本と比較して、これらの感情に支配されない世界観がある。
もちろん、ラオスもこれらの感情がゼロでは無い。ラオスの人たちも陰口や文句を言いながら「怒り」の感情を露わにする。そして時には悲しさや寂しさを訴え「不安」の感情を見せる。
しかしながら、人に対して怒ったり、寂しくて泣いたり、焦って慌てたり、ということが極端に少ない。そのようにラオスには「怒り」や「不安」の感情に支配されない人が多い。
日本、とりわけ東京にいると、電車の中で喧嘩したり、喧嘩しないまでも、混雑している電車の中は、怖い顔した人ばかり。多くの人々がラオスで些細とも言えることでイライラし、急ぎ、慌てている。
この違いの根本には何があるのだろうか。
私は「コントロール」が1つのキーワードになっていると考えている。
人は、発展していくにつれて、時間、自分、他人、あらゆる事象をコントロールしようとする。
規則、常識、効率を理由に、時間、自分、他人を縛り付け、そこから外れることを許さない。それゆえに、時間、自分、他人を常にコントロールすることを求められる。
それらのコントロールが上手くいかないとき、「怒り」や「不安」の感情に支配される。
時間厳守の考え方もそうだし、こうしなければおかしいという常識や効率化を意識し過ぎるから、そこから外れる自分や他人に対して「あるべき論」が正義になり、ついていける人は、ついていけない人に怒りを、ついていけない人は、不安を感じる。
つまり、多くの日本人は、なにかを自分の思い通りにすることに慣れ、思い通りにいかないことに怒りや不安を感じてしまうのだ。
ラオスでは、時間、自分、他人をコントロールしないことが多く、時間的、精神的に余白がある。そのためにラオスの特徴として「自分を許す」「他人を許す」「時間軸が緩い」と言われるのであろう。そこに日本人がラオスで生きやすいと感じる所以がある。
ラオスに関わる人にとって聞き馴染みのある自他共に対して使う魔法の言葉がある。
「ບໍ່ເປັນຫຍັງ(ぼーぺんにゃん)」
大丈夫、問題ない、という意味である。
個人的見解をもとに、言葉を分解して解釈してみると「ບໍ່(〜はない)」「ເປັນຫຍັງ(なぜ)」=「なぜは無い」つまり「理由なんて無い」そう「(コントロールできなかった)理由なんて無い」ということだ。
そう考えるととても潔ぎ良い言葉だ。
発展と共にコントロールは増えていく。
コントロールが増えすぎると人は余白を失い、
結果「怒り」や「不安」の感情に支配される。
発展途上国と呼ばれるラオス。
途上ゆえに、そのコントロールの力は弱い。
とはいえ、貨幣経済、資本主義経済の世の中で、経済的発展をしていかなければ、どうしても相対的に苦しい思いをしてしまう。単なる「発展しなくて良い」という発想だけでは綺麗ごとに過ぎない。
けれども、この日本人にとってのラオス社会の生きやすさは、現代社会を生きる人々にとって、大きな魅力となっている。
だからこそ、ラオスの非コントロール性と経済発展のバランスをうまくとりながら、前進していってほしいと願うのである。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?