
一年に何回、きちんと食事に向き合うことがあるのだろうかと考えさせられた -『劇映画 孤独のグルメ』感想-
『劇映画 孤独のグルメ』を観た。この作品のテレビシリーズを観たことはなかったのだが、とても人気だということは知っていた。しかし私の家にはテレビがなく、Netflixなどでテレビ番組を観る習慣もない。
それが、今年の正月に祖母の家に立ち寄った際に、たまたま番組の再放送をやっていて思わず観入ってしまった。
噂に聞いていた「おっさんがただ食事するだけの映像」というのは間違いないのだが、なんとなく後をひく感じがある。ひたすら食べるシーンが気持ちいいのか、妙にゆったりとした松重豊の声のトーンがいいのか、その時はよく分からなかった。
今回、映画版で初めてきちんと作品を観て、なにが面白いのか考えてみた。
【あらすじ】
輸入雑貨の貿易商を個人で営む井之頭五郎(松重豊)は、商談で赴く土地での食事を無上の喜びとしている。今回五郎が向かったのはフランス。パリに住む五郎のかつての恋人・小雪の娘、松尾千秋(杏)からの依頼の品を届けるためにやってきたのだ。
依頼主である松尾一郎(塩見三省)は千秋の祖父で、五郎が持ってきた故郷・五島列島を描いた絵画を見て懐かしむ。一郎は子どもの頃に飲んでいたスープのことを思い出し、五郎に食材とレシピ探しを依頼する。そこから五郎のドタバタ食材探しの旅が始まるのだった。
まず観ていて気付いたのは、食事シーンに感じられるアドリブ感。五郎が箸で食べ物を掴み、それを美味そうに見つめる。アフレコ(心の声)が入り、やっと口に運ぶ、というのがゆっくりと繰り返されるのだが、その途中で食べものが箸からこぼれ落ちていく。
お世辞にも食べ方が綺麗とは言えないし、料理番組などでは間違いなくNGシーンとなるだろう。しかし、普段私たちが食事をするときもこのようなマナーにもとることはあるし、よく見てみれば食べ方も個人で千差万別である。そこに妙なリアリティがある。
一方で、五郎が目の前の食事一品ごとにかける情熱は、私たちがする食事の比ではない。美味しそうな料理にちょっとした笑い声やため息が漏れたり、食材を試すような言葉も発せられる。
かといってそれらが食通らしいものかと言えば、まったくそうではない。食材や料理にまつわる専門的なうんちくもなければ、彦摩呂や石ちゃんのようなグルメレポーターがする、観ている人に上手く言ってやろうみたいな衒いもない。
ただ五郎が美味い、美味いといちいち発する度に、そうだよな、美味いときは美味いと言うしかないよなと妙に納得してしまう。本当に美味いものに言葉は要らないと言うが、五郎が発する感想一つひとつが飾り気のない素直なものに感じられる。
それでいて、ときに上手いことを言おうとして失敗するのもまた、私たちが飲食店で食通ぶりたいときのような素直な欲求を感じさせる(パリの食事シーンだと「俺は今、ナポレオンだ。オニオンスープから肉へと進軍していくのだ」などのコメント)。
五郎は必ず食べる前にいただきますと手を合わせ、食事が終わればまた手を合わせてご馳走様と言う。
ここ数年、私が飲食店や社員食堂でよく見かけて気になるのが、食事の傍らにスマホを置き、イヤホンをして動画を観ながら食事をする人だ。食事くらいゆっくりできないものか、そんなに食事をする時間がもったいないのかと呆れるのだが、実は自分も人を批判できなかった。
思い返してみると、実家にいた頃は当たり前のようにテレビを付けて食事をしていたのだ。面白いテレビ番組があれば、親が作ってくれた料理の味などどうでもよく、早く平らげてテレビをゆっくり観たい。そう思っていたはずなのだ。
また、食事は家族や親しい人とすると楽しいと言う。だが、会話に花を咲かせているとき、食事のことはどのくらい気にしているだろうか。料理が運ばれてきてひと口ふた口は「これ美味しいね」など感想を述べるかもしれないが、あとは会話がメインになってしまう。
五郎の食事は、店員さんが食事を持ってきてくれたときに交わすひと言ふた言以外は、完全に目の前の料理と自身の対話である。そこに他者・外界が関わることはない。
一時期、「ぼっち飯」や「便所飯」という言葉が話題になった。学校や職場で一人で食事しているのを見られるのが恥ずかしいから、一人になれる場所やトイレでご飯を食べる。調べてみると便所飯は2000年代にはすでにあったらしく、2013年の調査では約12%の人がトイレで食事経験があると回答したという。
思えば、2010年代には「ソロ活」や「おひとり様」という言葉が流行り、一人ですることが難しいランキング(例えば、ディズニーランドに行くことや焼肉屋で食事すること)などもメディアに取り上げられていた。
『孤独のグルメ』は2012年から放送されており、一人でなにかをすることが人々の意識にのぼり、当たり前化する過程と歩調を合わせていたことになる。コロナ禍で「黙食」が推奨され、もはや一人で食事することに以前ほどの抵抗感を覚えない人の方が多いだろう。
歴史をさかのぼれば、食事にかんして曹洞宗の開祖・道元が食べ物をいただく際の心得を説いている。
禅寺では食事は修行の一つで、食事中はいっさい無言でゆっくり丁寧に食事と向き合うことが求められる。目の前の一口ひとくちに集中する姿勢は、食材の命に深く感謝し、敬意を表することと同義なのである。
そう考えると、昔から日本人にとっての食事は「孤独」と親和性が高いのかもしれない。禅の修行のように厳格なものではなく、五郎は食事に貪欲でときには食べ過ぎることもあるが、食事に向き合って楽しむ姿勢は禅の食事態度で求められるものとそれほど変わらない。
そして、五郎がなんでもない人というのもまたいい。冒頭の一郎からスープ探しを頼まれるシーンは、五郎は面倒ごとを頼まれて断ろうとするのだが、一郎の気迫に負けてなし崩し的に了承してしまう。上司の無理な頼み事を断れないサラリーマンのような哀愁がある。
また、旅の途中でサップで海を渡ろうとするなど、どこか抜けていて頼りない感じもする。だからこそ、なんでもない自分と五郎を重ね合わせて観ることができる。
綺麗に装飾された「映える」食事を撮影し、加工してインスタグラムやTikTokにアップする。生活のすべてがコンテンツになり得、SNSでは「いいね」の数で何者かになることを常に求められるゲームのような世界。私には日常をそう感じてしまうことが、ときにある。
もしかすると『孤独のグルメ』の魅力は、何者かになることを求め続けられることへのアンチテーゼで(というか、本来何者かになんてならなくてもいいのだ)、一日三食誰もがする食事という世界の中では、自分が主役でいいということをそっと肯定してくれるところにあるのかもしれない。