「誰にもできる仕事」をたくさんしてみた経験から、自分にとっての「生きる」を考えてみた
さいきん悲しいなあと思うこと、いや、ずっとうすうす気づいていたことでもある。
きょうはそれについて書いてみようかな。
◇
ひとつめ。
きのう、秋葉原の居酒屋で飲んだのだけど、そこは、コロナ以降広がった、全部屋完全個室のお店で、お酒も、お料理も、そのバラエティも、お味も、どれも創作料理感があって、そこにこだわっていますというのが伝わってくるお店だった。
普段あまり飲まないような街で、自分主導でお店を決めなきゃいけないとき、頼りにするのは食べログの口コミだ。
けっこう食べ歩いている人もおいしいと言っていたのと、トイレがきれいだった(これ以外と大事)と書かれていたことが、わたしがこの店をセレクトした理由だ。
でも、やっぱりどこもバイトでかつかつに回しているんだろうな、というのを感じとってしまった、というのが悲しいことだったのでした。
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自分自身、つい最近、銀座の老舗の洋食屋のブラックバイトを、残業代はおろか給料も支払われないまま、辞めてしまった直後ということもあって、その疲れやダメージが、まだ抜けきれてなかったこともあったのかもしれない。
けれども、それ以前にも、わたしは飲食や調理系のバイトは、けっこうたくさんの種類をやってきたから、ここのホールやキッチンのオペレーションはこうだな、っていうのは、もういやなくらい、そのお店に入ったとたん、だいたいわかってしまうんですよね。
だから、ランチやディナーのピーク時とか、なにもしらないお客さんたちが立て続けに、スタッフたちの動きやオペレーションなどなにも察せずに、「すみませーん」って、まとめずにばらっばらにマイペースに注文していたりとか、「おひやくださーい」みたいな人たちを見ると、自分はなにも言えなくなって、自分はそういう波が引いてから声をかけようとか考えてしまうようになって、疲れる。
悲しいかな、もう無邪気に、フードサービスを利用していた頃の自分には、戻れなくなってしまった。
ここのカレー屋さん、あの新人の女の子ばかりにワンオペさせてる、このピークにそれはあまりにもひどいのに、調理のミスさえあの子のせいにしてる、とか怒りが込み上げてきたり、そこで職場内の人間関係もわかったり、疲れる。
食べた食器とかはもちろん、下げやすいように端にまとめておく…とか、洗い物のことまで考えちゃって疲れる…とかとか。
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そんなわたしだけど、プライベートで食を楽しみにするときくらい、そういうことを感じたくない、って思いながら、それでもあきらめずに、毎度行くのです。
食べることは、とっても大好きだから、嫌いになんて、なりたくないのです。
だけど、昨日の創作居酒屋も、そういう人員が足りてないなかでのいっぱいいっぱいさだったり、ブラック感が、もうすごく、隠すとか隠すとかじゃないくらいに、もう余裕のない感がおもてに出てしまっていた。
それをわたしが感じ取らないわけはなく、やっぱり、一緒に仕事しているような気持ちにいつものようになってしまって、そういう意味で、どっと疲れてしまったのだった。
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さっきも書いたけど、メニューはどれも個性的だったけど、たとえば、旬のメニューとして推していた、「いわしと梅としその天ぷら」には、ちぎれた爪楊枝が異物として、さっそく混入していた。あやうく喉にささるところで気づいて、急いで吐き出した。
あと、「本日の特選牛の水晶焼き」というのを注文したのだけど、水晶焼きというものを食べるのがわたしも相手も初めてだったので、「水晶焼きって、こういうものなんですね、へー」という会話を、運んできてくれたホールの女の子にセッテイングの際に投げかけた。
だけど、彼女も「さあ、わたしもよくわからくて」と困ったような表情で、<言われた仕事だからやってるだけで、なにも聞いてくるなよ>オーラも出ちゃってたから、こちらも<それ以上はなにもあなたたちの忙しそうな仕事にはうざがらみするような人たちではないので安心してください>的なかんじで丸くおさめはしたけれど、内心は、立て続けにがっかりしてしまったのだった。
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自分の経験からしかいえないけれど、たぶんだけど、仕込みは毎日のことで大変で、開店前に怒涛のようにやらなきゃいけないから、ちぎれた爪楊枝くらい入っちゃっても、誰もチェックする人なんて、その職場にも、いなかったんだろうなと思った。そんな余裕、どこにもない。
だけど、ホールにいるバイトさんに異物混入を指摘したところで、せいぜい社員が来て、その場でクレーム対策のためになんらかの謝罪をされるだけで、それでその異物混入なりを作り出すシステムが、変わるわけではないとわたしは思ってしまった。
黒を黒だと感じられない人たちこそが正義だと、そういったカルチャーを作り出している飲食業界において、異物混入を指摘したところで、再発防止に結びつくとは考えづらいから、あえて知らないふりをした。
その異物混入をしてしまったのが、あの店の誰なのかはわからないけれど、人を責めて解決する問題ではないし、じゃあそれを訴えたところでその組織を変えられるかといったら、もしかしたら少しは力になるのかもしれないけど、わたしはわたしで、一緒にいた相手と楽しい時間を過ごしたかったから、お互い貴重な時間を作って会っているわけだし、その流れを止めたくなかった。
自分の店で作っている料理について、なにひとつ説明できないバイトさんはよくいるけど、そのバイトが悪いとか、勉強不足だとも思わない。
彼らは、キッチンで作られたものを、お客さんに届ける、それだけで精一杯で、よく仕事しているよと思う。
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わたしは飲食店の調理、もしくはお惣菜工場やお弁当工場、福祉施設などでの調理を経験して、食の安全について、すごく考えさせられるようになった。実によく学ばせてもらった。
これまでは、繰り返される「食の安全」「食の安全」という掛け声に、思考停止みたいな薄ら寒さを感じてしまったり、「生産者の顔が見える安全安心なものを食べたい」とか言う消費者の声や、店も「安全安心にこだわってます」とか声高に言ってて、「安全安心とか、耳にタコができるわい」と思っていた。
だけど、いまではわかる。
「食の安全」なんていうものがこれっぽっちも当たり前ではないこと、というか、これまで平和ボケして、人から出されたものがすべて安全だと思って食べてきてしまっているほうが、危なかったなと。
すべて人間がやっているのだから、もちろん、作る側としてはそうじゃなきゃだめなゼロか100かの世界なのだけど、だからといって、それを信じきることは、危ないんだと。
食に携わる商売をしている人にとって、安全安心じゃないものが仮に出たら、それが命取りになることだということも、身をもって経験した。
たとえばそれは、在宅のときに以前からお世話になっていたデリバリー専門店のお弁当のつくねが生焼けだったことで、カンピロバクターに感染したとき。それはもう激しい腹痛がずっと続いた。
幸い、良心的なお店で、気づいたとき(気づいたときにはすでに時すでに遅しだったのだけど)、料理長でオーナーのマダムが、「わたしがスタッフへの調理工程の指示を間違えて、生焼けのままつくねを出してしまいました。カンピロになった際には、対応しますので」と連絡を、お弁当を注文したひとりひとりに寄せてくれた。
やはりそれからわたしもカンピロが検出され、何度も何度も断りまくったのだけど、最終的には謝罪に来て、お見舞い金(5万円)をいただいた。
苦しさはいまでも思い出すと、鶏肉を食べることがトラウマになってしまうくらいだけど、大好物だったケンタッキーとも疎遠になるくらいのダメージをくらった。
だけど、その誠意ある対応(隠すことなんていくらでもできたのに、隠さなかったこと。もちろん当たり前だけど、その当たり前が通用しないこの世の中で)をしていただけたことが、わたしはほんとうにいまでも運がよかったと思っている。
だから、そのお見舞い金は、いまも在宅で食べるときは、必ずそのお店に、ウーバーでも出前館でもなく、利用することにしていて、そのお店が、おいしいし、これからも街に根ざしてがんばってほしいと思っているから、すべてそのお店に投じようと決めて、実行している。
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とはいえ、そうやって、「食に携わるもの」としての当たり前な原点を、100%は徹底できなくても、それを目指そうとする姿勢で食に携わる人もいれば、現実は、そんな倫理のことなんて考えてやってられない、と思ってしまう人たちのほうが、飲食業界は多数派だと知った。
それは、その人が悪いとかではなくて、そういう人にしてしまう、組織や業界の話だと思っている。
とくにお客さんからは見えづらい厨房は料理人はみんなノーマスクが当たり前で、コロナのクラスターになったけど、無症状の人たちでなんとか回すなんてあるあるだったし、工場は滅菌処理とか服とか、髪の毛一本出ないように徹底はしているけれど、普通のキッチンは実にいいかげんで、忙しすぎて、手なんていちいち洗ったり消毒なんてしているひまもないし、いつだって髪の毛なり異物なり混入する可能性が大いにある。
食品衛生を学んでいるはずなのに、それを防止することをこの人たちはなんで考えないのだろうかと責めるよりも、長時間のブラック、残業未払い当たり前の環境で、マスクや衛生なりを求めることは、あまりにも見合わないことだと、わたし自身が、そこにいると錯覚をして思えてしまった。
昭和レトロな雰囲気を味わいたい人たちで行列ができる人気店にはネズミやゴキブリたくさんいたけど、お客さんに見える側をぴかぴかにする仕事が忙しくて、業務の手を止めてまで、倉庫や厨房までは掃除が回らない。まあ、もちろんそれじゃおかしいのだけど。
滅菌処理とかの徹底っぷりはすごい工場だけど、だれかに怒られたからかわからないけど、その腹いせにどう考えてもワザとでしょという、巨大な人の親指の足の爪とか入れたりして、会社が被害届出して、監視カメラで一人ひとり犯人扱いされることがあったりとか、そのたびに世知辛さを感じた。
人を喜ばせることをサービスにするという仕事は、自分たちの労働環境なりのセルフケアにたいしてのリテラシーは、どうしてもおざなりになってしまうとうか、そういうふうに、麻痺して、黒が黒とも見えなくなってしまう人間がたくさん製造されていく、その最たる業界が、食品、飲食なんだと、わたしは、わたしの経験した小さな世界で、感じた。
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冒頭に「ひとつめ」と書いて、「ふたつめ」を続けようと思ったのだけど、はからずも、食品衛生や飲食業界の闇の話になってしまって、ちょっとずれてしまった。
だから、「ふたつめ」をはしょって、いちばん言いたかった、「悲しいこと」のより具体的な話を、これから書きたいと思います(「結論を先に言え」と、いつも「結論から話すのが頭がいい」「結論を先に言わないのは『バカ』」と信じているプレジデントとか読んでるマンから、いつもこういうふうな展開方法に、いらいらされるわたしです。合わないから、ご安心ください)。
とにかく、なにか悲しいかっていうと、もう、どこに行っても同じだということです。
人間が機械になっちゃった。
さきほど紹介した創作居酒屋のスタッフも、わたしがさいきんまでバイトしてた銀座の老舗の洋食屋も、ドコモショップの店員も、アマゾンの配達員も、コンビニ店員も、みんな、もうちょっといけば、AIロボットと変わらないことをしているなあ、と。
ううん、厳密にいえば、ロボットと変わらないことが悲しいんじゃない。
「誰でもできる仕事」であればあるほどそうなっていくということが、悲しいんです。
「誰でもできる仕事」だから、「速く」が「もっと速く」、それができたら「もっともっと速く」、それでもできたねとなれば「もっともっと速く」と、もともと終わりがない、なんの自分に裁量も与えられていない仕事なのにも関わらず、終わりがないのに、速く速くだけが、ただひたすら求められる、その虚しさ。
だけど、そこで赤い靴のストーリーのように踊らされている人たちは、止まるという選択肢を、持つことができない。
「誰でもできる仕事」なのに、それについていけなければ、「誰でもできるから」という理由で、ごみくずみたいにかんたんに捨てられていく、そんな仕事を、いかにたくさんの人がしているのか、と。
そんな人たちで支えられている国は、とても貧しい。
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そういう仕事は、自分も何度も経験があるからわかるけど、入り口がとっても簡単だ。「誰でもできる」ことを、すごくメリットのように謳われる。
自分自身も、応募しようと思ったとき、「誰にもできる」ことで時給がもらえるならいいじゃん、やってみようかな、と思ったのだっった。
だけど、「誰にでもできる」からこそ、自分のペースではなくて、機械のように、ドラマや映画を倍速で見なきゃいけないように、トイレにもいけず水分もとるひまもなく、こまねずみのように動かされることを知って、ああ、こういうことかと初めて、やってみなきゃわたしは、知ったのだった。
右利きだから、右手メインで作業すると、「左手なにさぼってるんだ」とか普通に初日から言われる。
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裁量労働制でクリエイティブな仕事も経験しているからこそ、個人的には逆に、「誰にでもできる仕事」であればあるほど、せめて自分のペースでやらせてくれよ、と思ってしまった。それが素直な感想だ。
たぶん、わたしのような人間は、ブラックをブラックとして受け入れられなくて、「それ、ブラックじゃん」とまともに思ってしまって、うまく洗脳、適応できない、少数派側の人間だった。
いや、適応できる人だけ残っているから、そうなってるだけかもしれないけど。そっちのほうが正解かもしれないけど。
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でもでもでも、ほんとうに、いつも思う。おととい、サイゼリヤで、「AA02」とか「PA01」とかの伝票を書いて土日クルーの方に渡しながら、やはり、わたしもサイゼリヤのクルーになってる気持ちになってしまって、それだけでどっと疲れたのだけど、疲れながら、すごく思った。
「誰にでもできる」仕事なのに、誰にでもできることを、そんなコマネズミのように速くできて、この人たちは、これからもコマネズミのように働き続けていくのかなあ?それでずっと働き続けたいのかなあ?それでなにになるのかなあ?ねえ、教えて、って聞きたくなっちゃうくらい、すごく思って、たまらい気持ちになった。
ほんとうに、自分自身、そういうこともしてきた経験もあるから、同じ立場の人間として、ほんんとうにわからないから、聞きたかったんだよ。
そういう「誰にでもできる」仕事している人たちに。
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これまでは、地道に積み重ねてきたら、石の上にも3年、まずは3年続けて、10年続けたらプロになるとか言われた。
だけど、「誰にもできる」仕事を続けて、その先があるの?と聞かれると、自分自身の経験からも、こんな誰にでもできる仕事を続けた先に、なにかがあるとは思えないのだ。
高級な懐石料理やフレンチやイタリアンもサイゼリヤも、コンビニもドコモショップの店員も、アマゾンの倉庫でピッカーとして働く人も、料理長とかそういう人たち以外の労働者は、「誰にでもできること」を業態を変えてやっているだけで、ただそれを長時間でも飽きずに、あるいはすり減っていても気づかずに拘束時間として捧げているだけのことだ。
だけど、それが普通だ、仕事だ、それに「やりがい」とか言って、搾取しようとする人がいて、される人がいる、その関係性に違和感をもたずに存在している世の中が、わたしにはパラレルワールドにしか見えないし、世界線が違う、と思ってしまうのだった。
どこを見てもなにを見ても、似たような世界ばかりで、飽き飽きしてしまうのだけど、そこに共感したり、一緒に危機感をもってくれる人もいないのが、それもさみしかったりする。
一緒に明るい未来を、わたしは考えていきたいのに。
そんな同じプラットフォームのなかでただただ転がされているだけである以上、そこでなにか新しい体験をしたいとは、さすがにもう思えない。もう何やっても「誰もができる仕事」である限り、職種や景色が変わっても、虚しさは変わらないと思っている。
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そんなふうに、「誰もができる仕事」について、自分自身もそれに就いてみながら、考え続けるようになってきた、ここ数年間。
少なくともわたしは、誰もができる仕事には、やりがいも見出さないし、できたとしてもすぐに飽きてしまうし、興味がさっぱりないということが、よーくわかった。
そうなったら、答えは明らかで、「誰もができる仕事」を回避する生き方をするということだ。
当たり前だろう、だから差別化できるように、みんなそこをがんばってるんだろうと、お叱りを受けるかもしれない。
だけど、わたしは、「差別化」の意味が、ちょっとちがう。
まだうまく言葉にはできていないけれど、他人と差別できたからといって、自分がやっていることに誇りをもてるかどうかということなのだ。
差別化だけできて、お金をもらえても、ほかの大事な部分がすり減ってしまっては、少なくともわたしにとってはちがうのだ。
どちらかというと、わたしは、自分の大切な部分を削らなくてもいい生き方をしたい。
あと、がんばって「働く」と意気込むのではなく、呼吸をするように、生きていけるような、そんな自分になりたい。
生きているところのひとつに、働くという選択肢も入っていたり、なかったりして、自分の大きなテーマは、生きる、ライフ、というところなのだと思う。
「生きる」がすり減ったり、がたがたのなかで、働くなんて、本末転倒だ。
この年になって、まだまだそんなところなのかと、哀れに思われるかもしれない。
だけど、わたしは、わたしのペースで、自分しか作れない「生きる」ということをやっていきたいと思っています。
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今回は、そんなこんなで、さいきん悲しいと思ったことを中心に書きましたが、機会があったら、どんなふうに「生きる」をしたいのか、というところについての具体的なところや実践も、綴っていければと思います。
日々、自分実験中です。
これからもよろしくお願いいたします。