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【随筆】富士の名は -2-

 前回からの続き

 昨朝から降り続いていた雪が、窓の外の景色を白く塗りつぶしていた。このあたりでは年に数回降るかどうかの雪が、朝の街をおおっていた。外を見れば北に見える低い山も、ぼんやり白ばんでいた。

 富士山をありがたがり特別なものと感じている人のうちの多くは、本物の富士そのものではなく、記号化されたシンボルとしてのフジヤマをありがたがっているのではないか。―――などと考えてみたが、外の雪に頭も冷やされたせいか、勢い任せのそんな考えが、ひどく幼稚なものに思えてきた。個人的な意見を世間一般のそれと混同してはいけない。富士山についてどう思うか思わないかは、個々人の価値観による。思うがままに言葉を押し出すと、その垣根を気付かぬまに突破してしまうことがある。危ないことだ、まあ落ち着こう。朝日に光る雪も、そう言っているような気がした。

 とはいえ私には、富士山に対し特別な思い入れがないことは確かである。それは私が日本の西側に住んでいるということとも、無関係ではないだろう。登山も趣味とせず、そもそも周りに高い山も火山もない。―――そうだ、富士山は火山だった。

 「富士」は「不尽」と書き表されていたこともあるというが、それが火山であるということを考えると、不思議としっくりくるものがある。不尽(ふじん)とは、ものごとが尽きないことを意味する言葉だが、かの山については、有史以来活発な火山活動が続いているそうだから、「命の火が尽きない山」という印象が古くからあったのではと想像される。

 「風呂屋のペンキ画、芝居の書割」としてのフジヤマは、峰を白くした静かで荘厳な蒼い山のイメージである。だが火山として「不尽山」をとらえるなら、内なる炎を宿した命の山にもみえてくる。ああ、いいぞ。こういう動的なイメージが、私の中のシンボルとしてのフジヤマを打ち破ってくれる気がする。

 「不二」であるということは、自ら動き変化し新たになるということなのだ。そう考えると、気持ちも熱くなってくる。私は、冷えた自分の頭と体が、なんだか内から温まっていく感覚をおぼえた。 


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