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シューマン - 法律家を目指したシューマン

1. 青年期における法律への関心:父の蔵書の影響と現実的なキャリアパス

ロベルト・シューマンが青年期に法律に興味を抱いた背景には、大きく分けて二つの要因が考えられます。一つは、蔵書を通じて文学や哲学に親しんだ家庭環境、もう一つは、堅実なキャリアパスとして当時の社会において一般的であった法曹界への期待です。
シューマンの父、アウグスト・シューマンは、ツヴィッカウで書店兼出版社を営んでおり、蔵書にはゲーテやシラー、シェイクスピア、バイロンなどの著作が豊富にありました。幼少期から読書に親しんだシューマンは、豊かな文学的素養を育み、繊細な感受性と深い洞察力を養いました。こうした教養は、後の音楽活動にも大きな影響を与えますが、当初は法律という、より社会的に認められた分野での知的探求へと彼を向かわせました。
当時の社会において、法曹は知的職業として高い地位と安定した収入を得られる、現実的なキャリアパスとされていました。父アウグストも、息子には安定した将来を歩んでほしいと願っており、シューマン自身も、父の期待に応えようとする意識を持っていたと考えられます。また、シューマンは弁舌に長けており、議論を好む性格でもあったため、法学は彼の才能に合致する分野と見なされていた側面もあったでしょう。このように、家庭環境と社会的な背景が相まって、青年期におけるシューマンの法律への関心は育まれていきました。

2. ライプツィヒ大学での法学研究:当時の大学の様子とシューマンの学生生活

1828年、シューマンはライプツィヒ大学に入学し、法学を学ぶことになります。当時のライプツィヒ大学は、ドイツを代表する名門校の一つとして、自由な学風と活発な学生生活で知られていました。学生たちは、講義に出席するだけでなく、様々なサークル活動や社交の場に参加し、知的交流を深めました。シューマンも、この刺激的な環境の中で、法学だけでなく、文学や哲学、音楽など、多様な分野に触れる機会を得ました。
大学でシューマンは、法学の講義に出席する傍ら、学生たちの社交サークルにも積極的に参加していました。彼は、ウィットに富んだ会話と社交的な性格で人気を集め、学生時代を謳歌していたようです。しかし、法学の勉強には身が入らず、講義よりも社交や趣味に時間を費やすことが多くなっていきました。
ライプツィヒは、当時、音楽の中心地の一つでもありました。ゲヴァントハウス管弦楽団の本拠地であり、著名な音楽家たちが頻繁に訪れていました。シューマンは、学生時代にウィーンでベートーヴェンの弟子であったフリードリヒ・ヴィークのピアノ演奏を聴き、大きな感銘を受けます。この出会いが、彼の人生を大きく変える転機となるのです。法律の勉強に身が入らない一方で、音楽への情熱が再燃し、次第に法曹への道を諦め、音楽家を目指す決心を固めていくのでした。

3. 教授との出会い:ティボー教授との交流と音楽への情熱の再燃

ライプツィヒ大学でシューマンが師事した法学教授、フリードリヒ・ティボーとの出会いは、彼の音楽家としての道を決定づける上で重要な役割を果たしました。ティボー教授は、単なる法学者ではなく、教養人として多様な分野に精通しており、特に音楽への造詣が深い人物でした。彼は自宅でサロンを主催し、学生や知識人、芸術家などを招いて活発な交流の場を提供していました。
シューマンも、ティボー教授のサロンに頻繁に出入りするようになり、そこで様々な芸術家や音楽家と親交を深めました。教授の蔵書には、膨大な楽譜や音楽理論の書籍が収められており、シューマンはそれらを自由に閲覧することを許されました。ティボー教授自身も優れたピアニストであり、シューマンにピアノ演奏の指導を行うこともありました。教授との交流を通じて、シューマンは音楽への情熱をさらに深め、音楽家としての才能を磨いていくことになります。
特に重要なのは、ティボー教授がシューマンとフリードリヒ・ヴィークを引き合わせたことです。ヴィークは、当時既に名声を確立していたピアニストであり、ベートーヴェンの弟子としても知られていました。ティボー教授は、シューマンの音楽的才能を見抜き、彼をヴィークに紹介することで、本格的な音楽教育を受けさせる機会を与えたのです。この出会いは、シューマンの人生を決定づけるターニングポイントとなり、後にヴィークの娘、クララとの運命的な出会いにも繋がることになります。

4. 音楽への傾倒と家族の反対:法曹への道を断念し音楽家を目指す決意

ライプツィヒでの学生生活の中で、シューマンの音楽への情熱は日に日に増していき、ついには法曹の道を断念し、音楽家として生きていく決意を固めます。
しかし、この情熱的な転換は、母親ヨハンナにとって受け入れがたいものでした。ヨハンナは、夫アウグストの死後、女手一つでシューマンを育て、安定した将来を送ってほしいと願っていました。法律家は社会的地位も高く、経済的にも安定した職業であり、母親としては当然の願いでした。音楽家という不安定な職業に息子が進むことは、大きな不安と失望につながったのです。
シューマンは、母親の反対を押し切り、音楽家になる決意を固めます。彼は、ヴィークの指導の下、ピアニストとしての技術を磨く一方で、作曲にも精力的に取り組みました。そして、自らの才能と情熱を証明するために、母親に説得を試みます。音楽への情熱、そしてピアニスト、作曲家としての将来性を真剣に訴え、最終的にヨハンナは息子の決意を尊重し、音楽の道に進むことを認めることになります。
この家族との葛藤は、シューマンにとって大きな試練でした。しかし、彼は自らの信念を貫き通し、音楽家としての道を切り開いていくことになります。母親の反対を乗り越え、音楽への道を歩む決意を固めたこの経験は、彼のその後の創作活動にも大きな影響を与えたと考えられます。

5. ヴィークとの出会い:師弟関係から芽生えた恋愛と、その後の結婚への道のり

フリードリヒ・ヴィークとの出会いは、シューマンの人生を大きく変えました。前述の通り、ティボー教授の紹介でヴィークに師事することになったシューマンは、ヴィークの自宅に下宿しながら、ピアノの指導を受けることになります。ヴィークは厳格な教師でしたが、シューマンの才能を高く評価し、熱心に指導にあたりました。シューマンも、ヴィークの指導に真剣に取り組み、めきめきと上達していきました。
ヴィーク家での生活は、シューマンにとって音楽的にだけでなく、私生活においても大きな転機をもたらしました。ヴィークには、クララという名の娘がおり、シューマンは彼女に次第に惹かれていきます。クララは、当時既にピアニストとして頭角を現しており、その才能と美貌で多くの人々を魅了していました。シューマンも、クララの才能と人間性に惹かれ、やがて恋愛感情を抱くようになります。
二人の恋愛は、しかしながら平坦な道のりではありませんでした。ヴィークは、シューマンとクララの結婚に反対しました。ヴィークは、シューマンの将来を案じ、音楽家としてまだ成功を収めていない彼との結婚は、クララのキャリアに悪影響を及ぼすと考えていたのです。また、シューマンはクララよりも9歳年上で、経済的にも安定していなかったため、ヴィークは二人の結婚に不安を抱いていました。
シューマンとクララは、ヴィークの反対を押し切り、結婚を決意します。しかし、ヴィークは結婚を認めず、二人は法廷闘争にまで発展することになります。裁判は長期にわたり、シューマンとクララにとっては苦しい時期となりましたが、最終的に裁判所は二人の結婚を認め、1840年、二人は晴れて夫婦となりました。ヴィークとの確執は、結婚後も尾を引きましたが、最終的には和解に至り、シューマンとクララの関係は修復されました。この結婚は、シューマンの創作活動にも大きな影響を与え、多くの名曲が生まれるきっかけとなりました。

6. 指の故障とピアニストの夢の断絶:絶望と作曲家への転向

ピアニストとしての成功を夢見て、フリードリヒ・ヴィークの下で厳しい練習に励んでいたシューマンでしたが、20代前半に右手中指に故障を負います。この故障の原因については諸説あり、機械的な器具の使用によるもの、過度の練習によるもの、あるいは梅毒の合併症など、様々な憶測がなされていますが、確たる証拠はありません。いずれにせよ、この指の故障は、ピアニストとしてのキャリアを断念せざるを得ないほど深刻なものでした。
ピアノの名手を目指していたシューマンにとって、指の故障はまさに絶望的な出来事でした。長年の努力が水の泡となり、将来への希望を失ったシューマンは、深い悲しみに暮れました。しかし、この挫折が、皮肉にも彼を別の道、作曲家への道へと導くことになります。
ピアニストとしての道を閉ざされたシューマンは、作曲に専念することを決意します。作曲は、指の故障の影響を受けずに、彼の音楽的才能を発揮できる唯一の道でした。彼は、ピアノ曲を中心に、歌曲や室内楽曲など、様々なジャンルの作品を精力的に創作していきます。指の故障という悲劇的な出来事が、結果的にシューマンの作曲家としての才能を開花させるきっかけとなったのです。

7. 音楽ジャーナリズムへの進出:『新音楽時報』の創刊と音楽評論家としての活動

ピアニストとしての道を断たれたシューマンは、作曲家としての活動と並行して、音楽ジャーナリズムの世界にも足を踏み入れました。1834年、彼はライプツィヒで音楽雑誌『新音楽時報(Neue Zeitschrift für Musik)』を創刊し、編集者兼評論家として活躍を始めます。これは、当時の音楽界の保守的な風潮に一石を投じる、革新的な試みでした。
『新音楽時報』は、単なる音楽批評の場にとどまらず、シューマン自身の音楽観や理想を表現する場でもありました。彼は、誌面を通じて、バッハやベートーヴェンといった巨匠たちの再評価を訴えるとともに、ショパンやメンデルスゾーン、ブラームスといった当時まだ無名だった若手音楽家たちの才能を発掘し、積極的に紹介しました。彼の鋭い洞察力と情熱的な筆致は、多くの読者を魅了し、音楽界に大きな影響を与えました。
シューマンは、「ダヴィッド同盟」という架空の芸術家集団を誌面に登場させ、保守的な音楽界を批判し、革新的な音楽の創造を呼びかけました。これは、彼のロマン主義的な理想を反映したものであり、音楽における進歩と革新を強く志向する姿勢を示すものでした。フロレスタンとオイゼビウスという、正反対の性格を持つ二人の架空の人物を用いて批評を行うなど、独創的な手法も注目を集めました。
『新音楽時報』の編集と音楽評論家としての活動は、シューマンにとって、作曲家としての活動にも大きな刺激を与えました。彼は、音楽批評を通じて、自身の音楽観を深め、新たな表現方法を模索していきました。また、他の作曲家の作品を分析することで、自身の作曲技法を向上させることにも繋がりました。音楽ジャーナリズムへの進出は、シューマンの音楽家としての成長に大きく貢献したと言えるでしょう。

8. 作曲家としての成功:歌曲、ピアノ曲、室内楽曲、交響曲など多岐にわたる創作活動

ピアニストの夢を断たれた後、作曲家へと転身したシューマンは、旺盛な創作意欲で様々なジャンルの作品を生み出し、作曲家としての成功を収めました。特に1840年は「歌曲の年」と呼ばれ、歌曲集「ミルテの花」や「詩人の恋」など、数多くの傑作歌曲が誕生しました。クララとの結婚という幸福な出来事が、彼の創作意欲を掻き立てたことは想像に難くありません。
シューマンの歌曲は、単なる詩へのメロディーの付与ではなく、詩と音楽が一体となって、より深い芸術的表現を実現しています。詩の内容を的確に捉え、繊細な感情の揺れ動きを音楽で表現する手腕は、シューマンの音楽的才能の真骨頂と言えるでしょう。
歌曲だけでなく、ピアノ曲の分野でも、シューマンは優れた作品を数多く残しました。「子供の情景」や「クライスレリアーナ」などは、ピアノ音楽におけるロマン主義の傑作として、今日でも広く愛されています。これらの作品は、シューマンの繊細な感性と豊かな想像力を反映しており、子供のような無邪気さと大人の melancholic な心情が巧みに織り交ぜられています。
1841年以降は、交響曲や室内楽曲、協奏曲など、より大規模な作品にも挑戦し、作曲家としての活動の幅を広げていきました。交響曲第1番「春」は、明るく生命力に満ちた曲調で、シューマンの新たな出発を象徴する作品と言えるでしょう。また、ピアノ協奏曲イ短調は、クララのために作曲された作品であり、二人の深い愛情が表現されています。
このように、シューマンは歌曲、ピアノ曲、室内楽曲、交響曲など、多岐にわたるジャンルで傑作を生み出し、ロマン派音楽を代表する作曲家としての地位を確立しました。彼の作品は、ロマン主義的な情熱と繊細な感性、そして深い人間洞察に満ちており、後世の作曲家たちに多大な影響を与えました。

9. 晩年の精神疾患とエンドニヒ療養所:病との闘いと作曲活動の終焉

1850年以降、シューマンは徐々に精神疾患の症状を悪化させていきます。幻聴や幻覚、妄想などに悩まされ、作曲活動にも支障をきたすようになりました。原因については、先天的な要因や梅毒感染の後遺症など、様々な説が提唱されていますが、断定的な結論は出ていません。精神状態の悪化は、彼の人生における成功と苦悩、そしてクララとの関係性など、複雑な要因が絡み合っていた可能性があります。
1854年2月、シューマンはライン川に投身自殺を図りますが、幸いにも救助されます。この事件をきっかけに、彼はボン近郊のエンドニヒにある精神療養所に入院することになります。療養所での生活は、外部との接触が制限され、作曲活動も事実上不可能な状態でした。クララは、夫の病状を深く憂慮しながらも、子供たちの養育と自身のピアニストとしてのキャリアを維持するために、演奏旅行を続けなければなりませんでした。シューマンは、クララとの面会を切望していましたが、医師の判断により、それは叶えられませんでした。
エンドニヒ療養所での2年間、シューマンは病魔と闘い続けましたが、回復の兆しは見られませんでした。1856年7月29日、彼は静かに息を引き取りました。46歳という若さでした。彼の死は、音楽界に大きな衝撃を与え、多くの音楽家やファンがその死を悼みました。
シューマンの晩年は、精神疾患との闘いという悲劇的なものでしたが、彼の残した音楽作品は、今もなお多くの人々に愛され続けています。彼の音楽は、ロマン派音楽の精華として、後世の作曲家たちに多大な影響を与え、音楽史に燦然と輝き続けています。

10. シューマンの音楽的遺産:ロマン派音楽への貢献と後世への影響

シューマンの音楽的遺産は、ロマン派音楽における重要な位置を占めています。彼の作品は、繊細な感情表現、内省的な世界観、そして文学的な影響を強く反映しており、ロマン派音楽の典型的な特徴を示しています。特に、歌曲とピアノ曲の分野における彼の貢献は大きく、後の作曲家たちに多大な影響を与えました。
シューマンの歌曲は、詩と音楽の融合という点で革新的でした。彼は、単に詩にメロディーをつけるのではなく、詩の世界観を深く理解し、音楽によってその情感をより豊かに表現することに成功しました。彼の歌曲は、詩の情景や登場人物の心情を鮮やかに描き出し、聴く者を深い感動へと誘います。
ピアノ曲においても、シューマンは独自の境地を切り開きました。「子供の情景」や「クライスレリアーナ」など、彼のピアノ作品は、叙情性と幻想性に満ち溢れており、ロマン派ピアノ音楽の代表作として高く評価されています。短い小品を組み合わせて一つの作品を構成する手法は、後の作曲家たちにも大きな影響を与えました。
また、シューマンは音楽評論家としても重要な役割を果たしました。『新音楽時報』の創刊と編集を通じて、彼は当時の音楽界に新たな風を吹き込みました。バッハやベートーヴェンといった巨匠の再評価を訴える一方で、ショパンやメンデルスゾーン、ブラームスといった若手作曲家の才能を発掘し、積極的に紹介しました。彼の先見の明は、後の音楽史に大きな影響を与えたと言えるでしょう。
さらに、シューマンは「ダヴィッド同盟」という架空の芸術家集団を創設し、ロマン主義的な芸術理念を提唱しました。この運動は、当時の音楽界に大きな刺激を与え、新しい音楽の創造を促しました。
シューマンの音楽は、ブラームスやチャイコフスキー、マーラーなど、後世の作曲家たちに多大な影響を与えました。彼の繊細な感性、内省的な表現、そして革新的な精神は、ロマン派音楽の伝統を受け継ぎ、発展させる上で重要な役割を果たしたと言えるでしょう。今日でも、彼の作品は世界中で愛され続け、時代を超えた普遍的な価値を放っています。

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