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二話・苦い話にも裏がある
嘗て杵築大社と呼ばれた島根県出雲大社。そして三重県伊勢神宮。それら著名な社には「御師」と呼ばれる、信仰普及員と参拝勧誘員を兼ねた職種の人々がいた。その、彼らの担う役割が表とすれば、「隠師」と呼ばれる、裏の存在が現在にまで命脈を保っていた。隠師の役割は、日本各地に出没する、「汚濁」と呼ばれる負の念の塊や、人に害をなす人外の存在を消失せしめること。菫や駿は、その隠師の家の出であった。
隠師は御師とは違い、音に濁りがあることから、清浄から隔たる者として長く蔑視されてきた。しかし隠師がいなければ汚濁などが始末に負えないのも事実。隠師は霊能に関する業界でも際立つ異能を持つという点で、一目も二目も置かれていた。だがその異能の神髄は極秘裏で、外部で知る人間は少ない。
「菫~~~~」
土曜の朝。精根尽き果てたといった様相で、駿が研究室のドアを開けてよろよろと菫の座る机まで歩み寄ると、ぽとん、と梨を卓上に落とした。
ごろりん、と重みを以て転がる、黄色と黄緑の混じったような爽やかな色合い。円やかな丸みを帯びた果実は瑞々しい芳香を放っている。
「二十一世紀梨か。今度は鳥取だったんだな」
「ご明察。もう! 見てくれよこれ!」
言って、駿が自らのスニーカーを脱ぎ、それを裏返すと中からざらーーーーーーっと砂がこぼれ落ちた。
菫が眉をひそめる。
研究室を散らかしたいのか、この男は。
「よりによって鳥取砂丘だよ。砂の粒子がすんげえ細かいの。知ってるか? あそこ、駱駝がいるんだぜ」
「乗ってきたのか」
「そうそう、乗りながら汚濁退治……って出来るか。駱駝は夜には小屋に帰ってるし」
「それで首尾は?」
駿が五体満足で帰り、非常に、傍迷惑な程、ぴんぴんしている以上、訊くまでもないのだが、菫は念の為に尋ねた。
「そりゃばっちり? 働いてきましたけども?」
「結構」
「なー、何で長老たちも霊能特務課も、菫より俺のほうの扱いが荒い訳?」
駿は、先月は北海道に飛ばされていた。比べて菫はここ、九州の地元から遠隔地に赴く指令を受けることは極少ない。駿の不満も尤もだった。
長老というのは隠師の流れを汲む者たちのまとめ役である。
霊能特務課とは、非公式の政府組織で、そこに属する者は超法規的措置を許可されることが多い。警視庁が抱える隠密の外郭団体である。
菫も駿もその二つに所属し、指令を受ければ身に備わった能力でそれを遂行していた。指令なしで動く時もある。往々にして自己判断を任せられている。
菫は駿の素朴な疑問に微苦笑を返し、椅子から立ち上がる。
「梨の礼にコーヒーを淹れてやる」
「有り難いね」
史学科教授・持永誠一の研究室のコンロの下には、教授拘りのコーヒー豆のストックが常備されてある。
必然的に手動式のコーヒーミルまであって、菫は薬缶を火にかけてから、コンロの下の棚から取り出したコーヒー豆入りの袋から、豆をざらざらとコーヒーミルの受け皿に入れ、持ち手を回す。ガリガリという特有の音と、コーヒーの香ばしい匂いが鼻腔をくすぐる。
その間に横で駿が梨を剥いている。独り暮らしの賜物だろう、剥き方が堂に入っている。
(コーヒーと梨か)
些か食べ合わせに難があるが、まあ良いだろう。
薬缶が音を立てて湯の沸騰を知らせ、菫はコーヒーポットにコーヒードリッパー、コーヒーフィルターをセットしておいたものに挽き終えたコーヒーの粉を入れる。薬缶から湯を移した口の細い銀色のケトルを少しだけ置いて湯を冷まして、まず少量の湯を粉に垂らして含ませた。
コーヒーを淹れる作業は人を無心にもすれば考え事に没頭させもする。
先程の駿の愚痴が蘇る。
菫の家は隠師の家柄でも力の強い家柄として知られている。
そして菫は、少々、訳ありとされてはいるが、その実力は高い評価を受けている。流石は神楽家の娘だ、と。
今年で小学五年になる弟も、既に十分な能力の発露を見せている。
良い意味でも悪い意味でも、菫は二組織上層部の虎の子だった。
(思惑がどうあれ、使い所を測られているに過ぎない)
コーヒーの粉にゆっくりと湯を回しかける。
この際、細かい泡が粒々と立つように。
コーヒーの液が落ち切る前に、次の湯を注ぎ回す。
それを繰り返し、最後にコーヒードリッパーの半分程までコーヒーが落ちたら、そこでドリッパーを外して、出来上がり。
ブラインドシャッターに阻まれない窓からは青空と銀杏の樹が見える。季節になると黄葉する銀杏の下で恋人同士が語らうなどする大学の名物スポットの一つである。
この、能力を。
菫は右掌を見る。嫋やかさとは程遠い固く厚い掌。使えるものなら幾らでも使う。
それで兄の死の謎が解けるなら。
その時、私は。その時になったら、私は。
(お母さん――――――――)
ごめんなさいと世界のどこへともなく謝る。
或いは世界中に。
その所以を知るのは父だけだ。
父だけが菫の罪を知っている。母を愛し、見守って。恐らくは菫と弟のことも同様に。
「お袋さん、元気?」
「ああ」
非常にタイムリーな、まるで菫の心を読んだかのような駿の問いに、菫は表面上、ポーカーフェイスで頷く。だが心臓はばくばくと躍っている。菫の母親は数年前に狭心症の発作を起こして倒れた。それを知る駿が、単純に気遣っただけのことだ。ただそれだけのことだ。駿の机は菫の向かい。菫からは丁度、彼の背に空と銀杏が見える位置にある。
「あそ」
駿はシャクシャクと梨を食べつつコーヒーを飲みながら頷いた。
どうでも良いがまだ裸足のままだ。靴を履く気はないのだろうか。
菫の視線を追った駿がほったらかしにされている自分のスニーカーを見た。
「そう言えばさあ。靴泥棒の話、知ってる?」
「いや。出るのか」
「んー」
駿がコーヒーを飲んで一拍、置く。
「うちの大学の話じゃなくてさあ。ほら、近くの私立病院に。患者の靴が盗まれるってさ。それがただ盗まれるならまあ、ない話じゃない。けど、そこの場合、靴を盗まれた患者は症状が改善して快癒するんだと。手の施しようがないケースが完治したりもするらしい」
「…………」
「んで、ここからが本題。靴を盗まれた患者が退院して、家でやれ良かったと喜んでると、盗まれた靴がひょっこり返ってくることがある。そしてその場合、元・患者は再び症状を悪化させ、病院に逆戻りって訳さ」
菫は目を閉じてコーヒーを一口飲み、それから駿の後ろにある空と樹を眺めた。
深く濃く苦い液体が咽喉を滑り落ちてゆく。
「どう思う?」
駿がにやにやとチェシャ猫のように笑いながら菫に向けて首を傾げて見せる。その仕草に黄色い悲鳴を上げる女性もいるんだろうなと思いながら、菫は簡潔に答えた。
「お前と同意見だろう」
「うわ、そっけな!」
「煩い黙れコーヒーが散る」
「いや、後半の意味が解らん」
二人が靴泥棒の真相についておおよその見当をつけて、厄介事の出現とその情報をもたらした駿に菫が八つ当たり気味に腹を立てていた時。
研究室のドアが粉砕されんばかりの勢いで開いた。
何事かと目を瞠る菫に、香水の香り放ちハイヒールの音も高らかに闊歩して迫ったのは。
「ただいま、ハニー。私の可愛い仔猫ちゃん」
鮮やかな発色のマゼンダ、ブランド物のスーツを見事に着こなした、何とも艶やかな美女であった。
「お帰りなさい華絵さん。研修お疲れ様でした。私はネコ科ネコ属ではありませんホモ・サピエンスです人間です」
息継ぎなし、一息で力説した主張も、くすりと笑っていなされて終わりだ。
駿には及ばないまでも女性の中では長身の部類で、長いウェーブヘアの女性がすっとサングラスを取った。そのへんの気障な男よりもずっと様になっている。
クオーターの御倉華絵は髪を掻き上げて菫に流し目を遣った。綺麗な緑がかった流し目である。
「研修の間中、貴方のことが気掛かりで仕方なかったわ。どこぞの小僧に食べられてたらどうしようって……」
菫を抱き締め、豊満な胸をぐいぐいと顔に押し付ける。いっそ羨ましいぐらいの柔らかく大きな膨らみに、菫は呼吸困難を起こしそうになる。男であればこのまま昇天しても本望なのだろう。
「はにゃえひゃんはひゃひへ」
「どこぞの小僧って誰のことですかねええ」
駿が、フェミニストを自称する彼には珍しく乱暴に華絵から菫を引き離す。おまけとばかりにちゃっかり自分の胸に抱き込んだものだから、菫にはエルボーを喰らい、華絵には拳骨をお見舞いされた。
「それで? いつその病院に行くの?」
「どこから聴いてたんですか……」
隠師の先輩に当たる華絵に、菫は嘆息した。
その憂い顔がまた良いわあなどと言われたので、もう面倒でこっそり放置することにする。この美女のオーバーリアクションはその身に流れる四分の一の異国の血の為せる業ではあるまいか。
だが華絵の帰還が喜ばしい事実には変わらない。彼女の存在は心強い。
なぜなら今回、対峙するであろう相手は、菫や駿は愚か、日本ではお目に掛かれない筈の異形だからである。央南大学史学科研究室に陰師が集っているのは、こうした場合の連携を取りやすくする為でもあった。長老たちも霊能特務課も、菫たちと類似した隠師の集まりを日本各地に置き、これを掌握していた。その集まり同士における情報交換もしばしば行われ、隠師の貴重な情報源となっている。
華絵の胸は菫に母をも思い出させ、少し胸が痛んだが、彼女は冷めかけたコーヒーと共に感傷を呑み下した。
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