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二章・一話 贈り物は何ですか

 障子戸を開け放たれた寺の方丈に茶筅ちゃせんの音が響く。
 茶をてるのはまだ若く見える、白髪の男。黒い単衣ひとえの着流しが、白髪を際立たせる。その双眸は閉じられている。
 ふ、と茶筅を動かす手が止まった。

「ああ……、泣き出しましたなあ、空」

 安閑あんかんとして、けれどそこはかとなく色気の漂う関西弁。声は高過ぎず低過ぎず、耳に心地好い。

「ほう、解りますか」
「ええ。匂いますよって」

 それからまた何事もなかったかのように茶を点て終えた彼は、双眸を閉じたまま、茶碗を客人の前に置いた。緑が芽吹いたような色の茶が、黒々とした茶碗に映えている。広い方丈には男の指摘より僅かに遅れて、雨音が響いてきた。森閑しんかんとした静寂を、雨粒の合唱がはやし立てるようだ。

「傘はお持ちですか、京史郎はん」
「ええ」
「それは重畳ちょうじょう

 盲目の男は見えない筈の目を京史郎に向け、にこりと笑った。その瞳は薄い紫だった。



 空から伝い落ちる白銀の糸。

 初めはまばらだったそれらは、次第に束を成す程となり、菫の鼓膜こまくをドアの戸を叩くように刺激した。白銀の糸は天地を結ぶ作業をまだ止めそうにない。

  美しく疎ましい雨という名の現象。
 水の玩具は汚濁を呼ぶ一要素だ。

 なので、梅雨時、菫たちは忙しい。まだ気象庁が梅雨入り宣言を出してもいない内から、余り降って欲しくないものだと思いながら、菫は気怠くベッドから身を起こす。隣に敷いた布団に寝ていた興吾が、くるりと寝返りを打つ。興吾は昔からいびきも余りかかず、寝相も大人しい。タオルケットを掛け直してやりながら、菫は彼の白髪をさらりと指で梳いた。

 立ち上がり、寝汗を洗い流すべく、浴室に向かう。
 浴室に降る雨は熱く、肌に心地好い。身に負った穢れを全て洗い流してくれるようで、菫は執拗しつようなくらいにシャワーを浴び続けた。
 ――――横たわる兄。舞う紅。紫の花畑。
 一時は途絶えていた過去の夢を最近、頻繁に見る。何かの予兆だろうか。
 もうこれ以上は好い加減、肌がふやけてしまうというところで菫はシャワーの蛇口をひねり、バスタオルで身体を拭いた。黒いタンクトップ、白のパンツに着替える。
 浴室を出ると興吾が腕を組んで壁に身体をもたせ掛けていた。菫の長いシャワーの間に起きたのだろう。紫の目が菫に向かう。

「長過ぎ。これだから女は」
「興吾。そのワードは女に嫌われるぞ」
「良いんだよ、別に。女は煩い。また兄貴のことでも考えてたんだろう」
「…………」

 図星に菫が黙り込む。

「死んだ奴に囚われ過ぎるな。汚濁を呼ぶぞ」
「……お前の、兄だろう。仇を討つんだろう」
「そうだ。だが、決意と拘泥こうでいは違う」

 菫の反駁はんばくに興吾は力強く言い切った。言い切れる弟が菫には眩しかった。彼は過去の悪夢を見ることはない。

 リビングとキッチンを隔てる煉瓦の壁の、彩り鮮やかな嵌め殺しの窓を見遣る。今は日の光さえないものの、興吾が点けた電気の明かりで六色の色が向かいの壁に踊っている。

 菫はその色を認めて目を細め、朝食の支度に取り掛かった。

 小学校が夏休みに入り、興吾が入り浸るようになってから、適当に済ませていた朝食も手を抜かないようになった。以前も、興吾が来る時はしっかりした物を食べさせようと姉の義務感から、普段の手抜きとは違う食卓を供していたのだが、最近はそれが日常化しつつある。念の入ったことに興吾の食費として両親から余分な仕送りまである。興吾は同年代の子供と比べると大人びているとは言え、うちにいるとやはり何かと持て余すのだろう。夏休みは菫たちの母にとって荷の増える時期となる。菫の部屋にいてくれれば、安心出来て母の負担も減り一石二鳥というところなのだろう。

 菫は溜息を吐き、椎茸と昆布、いりこで取った出汁だしで作った豆腐とわかめの味噌汁に、あじの開きを焼いた物、卵焼きとじゅんさいの酢の物を作り、リビングに準備されたローテーブルにお盆に載せて持って行った。

「菫。美味い」
「それは良かった」
「俺が来てない間、まともな食生活じゃなかっただろ」
「だからと言って、私の食生活の改善を名目に、連泊を続けるなよ。私だって手間なんだ」
「女が無精なこと言ってんなよ」
「それより興吾。朝ご飯が済んだら見せたい物がある」
「おう、何だ」
「ちょっとな」

 夏バテという文字とは無縁そうな興吾は、朝食を綺麗に平らげ、菫の命じるままに食器を洗い、片付けた。働かざる者喰うべからず、である。
 菫は興吾が片付けを済ませる頃合いを見計らい、机の抽斗ひきだしから紫水晶の鉱石を取り出した。――――濃い紫の輝きが、あの日の菫の花畑と重なる。
 
「兄さんから貰った物だ。私の名前に因んで」

 タオルで手を拭いてやってきた興吾に、菫が見せる。
 電気の光を受けた紫水晶は幾つもの鋭角を煌めかせ、下部の白っぽい部分まで乳白色に淡く光った。

「兄貴が……」
「そうだ。兄さんの、最期の形見となった。そして興吾。お前の分も私が預かっていた」
「俺の分?」

 菫が軽く笑う。

「お前の瞳は紫だろう? お前が生まれた時から、お前にも紫水晶を贈ることを考えていたらしい。……果たせずに終わったが」
「…………」
「長老たちと霊能特務課から認可が下りた」

 はっ、と興吾が顔を上げる。

「お前は正式に、隠師として汚濁を滅する任務を負う。この紫水晶は、その証だと思って受け取れ」

 菫が持っていたもう一つの、菫の物よりはやや小振りだが、色はより濃い紫水晶が、興吾の掌の上に乗る。興吾は拳を握り締めた。

 菫と興吾はそれぞれ傘を差し、白銀の雨の中を大学まで歩いた。
 道沿いの桜の樹も今はたっぷりと水分を含み、緑の葉を重たげに垂らしている。

「おはよう、菫。と、興吾君」

 研究室のドアを開けるなり、華絵の挨拶を受ける。雨音は研究室内にも響き、それで世界を覆い尽くそうという雨雲の野心を菫は疑った。

「呼び捨てで良い」
「あらそ?」

 興吾は妖艶な美女にも物怖じせず、ずかずかと研究室に入り込んだ。
 来客中のようで、駿が応接セットのソファーに座り、白髪の老人の相手をしている。菫が目で華絵に汚濁絡みかと問うと、華絵は軽く頷いた。
 駿が接客スマイルで老人に問い掛けている。

「亡くなった筈のお孫さんの声が聴こえる、と」

 ループタイを着けた品の良い老人は、身を乗り出した。カチャン、と紅茶の入ったティーカップが鳴る。

「それだけではない。家内が、死んだ筈のあの子……智恵子ちえこのセーラー服姿を見たと言っている」
「いつですか?」
「一昨日の、夕暮れ時。買い物から帰る途中、智恵子にそっくりな少女が、あの子の通っていた学校の制服を着て、歩いていたそうだ。紺色のジャンパースカートに、リボンにした赤いスカーフが誘うように閃いていたそうだ。声を掛けようとすると角を曲がり、そのあとを追うと智恵子の姿はなく、その先は行き止まりになっていたと」
「お孫さんが亡くなったのは交通事故でしたね」
「ああ。酷いもんだ。忘れもしない。三年前、大型トラックが雨でスリップして横倒しになり、それに巻き込まれた」

 老人の顔が苦しそうに歪む。

「……ところで、どうしてこのご相談をうちに持ち掛けられたんですか? ここは史学科研究室であって、霊能関係の看板は掲げておりませんが」
「教えられたんだ」

 駿の双眸が鋭くなる。

「関西弁の……年齢がよく判らない男の声だった。うちに電話があって。ここはこの手の問題解決に尽力してくれると。半信半疑だったが、あんたはこうしてまともに話を聴いてくれた」

 老人が退出したあと、華絵と菫、興吾は顔を突き合わせて今回の問題について検討した。まず解らないのは、老人・板倉いたくらにこの研究室を教えた男の存在である。板倉の知己ちきの声ではなかったらしい。最初は悪戯電話かと思ったが、電話の主は亡くなった孫・智恵子の出没することをなぜか知っていた。菫たち隠師が央南大学史学科研究室に集うことは、同じ業界の人間しか知らない事実だ。その、電話を掛けてきた謎の男が、何の目的でそうしたのか。得体の知れない案件だった。

「放置する訳には行かない」

 菫の結論に駿も華絵も頷く。

「幽霊は負の要素を帯びている。加えてあの老人、板倉夫婦が死んだ孫娘に囚われ続ければ嘆きのもととなり、結果、汚濁が生じる可能性が高まる」
「……それを知った上で、男は電話を掛けてきたのか? なぜだ? 汚濁の出現を俺たちに未然に防がせようとしたのなら、事情に通じ過ぎている」

 次いで口を開いた駿に、華絵が続ける。

「関西弁だったと言っていたわね、その電話の相手」
「ああ。でも、そんなん手掛かりになりませんよ」
「確かに」

 華絵の苦笑は色香が匂う。

 菫と華絵は、事件後の経過視察も兼ねて『パブーワ』に赴いた。昼食は大学で興吾たちと共に摂ったので、喫茶しながらの話が目的である。

「そう……。翔さん、こんな物を遺していたのね」

 運ばれてきた水を一口、口に含んだあと、華絵が、菫の差し出した紫水晶を弄びながら呟く。レストランの丸い照明に鉱石が反射してきらきらと微細な光を宙に撒いた。
 菫の亡き兄・翔は、華絵の初恋の相手でもあった。
 華絵の御倉家と神楽家は昔から家ぐるみの付き合いがあり、菫と華絵も幼少の頃からの顔馴染み、言わば幼馴染だった。駿との付き合いよりもはるかに長い。当時の華絵は翔と逢える機会がある度に、胸をときめかせていたものだ。華絵の目に感傷的なものが宿る。

「僅かに霊力の波動を感じるわ。護符代わりなのかもしれないわね」
「……そうですね」

 そこで気持ちを切り替えるように、ぱっと華絵が顔を明るくした。

「それで? 話って、駿のこと?」
「はい」
「あいつも謎よね。自分の本当の霊刀をどうして隠したがるのか。そして、あの時のあの台詞……」

〝もうしばらく秘密にしときたかったんだけどな〟

「どうしてかしら」
「華絵さんにも解りませんか」
「それはそうよ。あいつ、ああ見えて秘密主義だから」
「村崎には私たちに隠していることがある……。霊刀のみならず。それは確かです」

 ふふん、と華絵が鼻を鳴らし、菫に顔を寄せた。緑がかった瞳が、悪戯っぽく菫の顔を下から覗き込む。

「菫がお願いすれば、話すかもよ? 可愛らしく、懇願してみれば?」
「ご免蒙めんこうむります」

 くすくすと華絵が笑った。

「固いわね~。駿はあれで結構、菫のこと本気だと思うわよ?」
「万年発情期男がですか。話にならない」

 それに、と菫は思う。駿が胸に秘めているものが何であれ、色仕掛け程度で話す内容ではないだろう。そしてまた、駿が本当に自分を想っているかも怪しいものだ。菫は時々、駿から観察するような視線を感じていた。それは凡そ恋や愛などといった甘い感情とは隔絶された、冷徹とも言える視線だった。
 これ以上議論しても堂々巡りのようだ。菫も華絵も、駿に関して敵には回るまいという大前提を確認したところまでが限界だった。
 丁度、焼き立てのスコーンが運ばれてくる。
 二人は話を中断して、スコーンが熱い内に、クロテッドクリームと苺ジャムをたっぷりつけて、甘味を堪能した。
 白銀の線はまだ天地を結び続け、人間たちの思惑を嗤うようだった。




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