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ミステリー小説短編連作シリーズ『大海は【普通に】謎を解く』・特別編『ヘブロン』

 大海ひろみは流れゆく車窓の外を眺めていた。
 川の流れや、人生を何となくイメージする。緩慢なようでいて瞬く間に過ぎるのだ。
「パトカーじゃないんですね」
 大海がのんびり呟いたのを、新田にったの耳が拾った。
「公式に先生方をお連れする訳にも参りませんので」
「だよね~。でも乗ってみたかったなあ、パトカー」
「大海」
 後部座席で長い脚を窮屈そうに組む隼太はやたが、苦い声を出す。
 反社会的勢力、と言っても過言ではない自覚が有り余る隼太としては、当然の非難だ。
 自分の右に座る音ノ瀬おとのせことと、無自覚で放埓的でさえある天才たる父・音ノ瀬大海おとのせひろみこぞって嘆願されなければ、まず警察の運転する車に乗りたくないのが人情というものだ。
 新田は、こととはコトノハ薬局を介しての知人であり、時にれっきとした警部である新田自ら事件解決の依頼をする場合もある。コトノハの力も知っている、数少ない常人の一人だ。
 隼太の存在は既知であり捕縛したい気持ちも山々だが、ことと大海がそれを阻む抑止力となっている。
 また、隼太は非常に狡猾に法の抜け穴を掻い潜るので、起訴しても棄却される可能性が高い。
 極めて端正な美形が先程、発した声の苦さには、新田の内心とも通じるところがあった。
 大海とはまだ知り合って間もないが、ことの為人ひととなりはよく知っている。普段は着物姿の多い彼女だが、今日はパンツスーツに濃紺のトレンチコートを纏っていた。無暗やたらと情に流され、進んで犯罪者を野放しにする女性でないことは織り込み済みである。
 新田は何度目になるか知れない嘆息を吐いて、ハンドルを切った。

 薄暗い路地裏。
 警察が施した立ち入り禁止の目印がある。
 二月はまだ温暖な笑みを見せてくれない。時折、冷たい突風が吹いて、裏寂しい荒んだ事件現場を、より寒々とした舞台に仕立て上げた。割れた硝子の破片がそこかしこに泥に塗れて散らばっている。
 四人が車を降りて現場に足を踏み入れると、ジャリ、ザラ、という細かな鈍い音が鳴った。

「身元は?」
「今朝がたに発見されましたからね。まだ不明です。二十代後半の男性。死亡したのは丁度、午前零時頃」

 死骸はない。鑑識に回っている。
 しかし、犠牲者がどのような恰好で倒れていたかは、その鑑識の手により明確だ。
 隼太は物見遊山のように汚れた壁に這う蔦を傍観している。ことは何も言わず、後ろで一つに結んだ長い黒髪を風になびかせていた。

 現場百遍。

 刑事ドラマでよく聴く言葉だ。
 新田から電話越しに事件現場のあらましを教えられた大海が、珍しく今回は事件現場に直接行きたいと言い出した。ことの同行を望み、ついでに嫌がる息子の襟首をしっかり掴んで放さない。
 そこで、こうした成り行きとなった。

 大海の瞳が路地裏の向こうにあるフェンスに向かう。
 妙に目新しさが際立つ、場違いなエメラルドグリーンの編み込み。
 僅かに血痕の付着が視認出来る。

「……遺留品を見せてください」

 淡々とした声で大海が新田に告げた。
 新田は丁重にビニール袋を差し出す。
 大海の掌に乗ったそれは、千切られたネックレスのチェーンと思しきパーツと、黒っぽい玉だった。

 風が吹いた。
 大海が短く結んだ癖っ気も揺れた。

「大海先生は、これが何なのかお判りになりますでしょうか」

 大海は一つ、瞬きした。意外に長い睫毛と睫毛が出逢い、別れる。
 惜別のように。

「さあ。僕にも何だか判りませんねえ」

 軽く肩を竦めて、大海はビニール袋を新田に返した。
 素直に不思議がるような自然な声。

 ――――――――不自然でいびつなコトノハ。

 コトノハ遣いは人の嘘を聴き分けることが可能。嘘を吐くのが、余程に強力なコトノハ遣いであればそれも難しくなるが、そこに居合わせたのは音ノ瀬歴代最高峰、と称されるコトノハ処方の実力者であり、音ノ瀬家の当主・音ノ瀬ことと、彼女に拮抗するかと思われる隼太だった。

 大海のコトノハは空言である、と即座に知れる。

 ことは、その黒ずんだ玉を凝視した。隼太は一瞥した。
 音ノ瀬家当主の顔は憂いがちになったが、隼太の無表情は微動だにしない。

「教えてやれよ。嘘は良くないぜ? 大海先生」

 後半には皮肉と自嘲の響きがある。
 ことは薄く開きかけた唇を、閉ざした。彼女には大海の気持ちが解った。隼太もそうだろう。フォーゲルフライの野望を掲げ続ける男だ。
 だが真実の追及に、隼太は誰よりも冷酷無慈悲だった。

「……大海先生。この玉が何なのか、ご存じなんですか?」
「そうですねー。でも、言うの気乗りしないや」
「なぜ」
「別に良いじゃん。死んだ、もとい、死ぬ羽目になった男はハッカーや臓器売買で荒稼ぎしてたろくでなしでしょ」
「――――――――なぜ、それが判ったのですか」
「え? いや、新田さんの話をザっと聴いたらそのくらいの察しは普通につくって。ね? ことさんだってそうだろ?」
「そうなんですか、音ノ瀬……、ことさん」

 ことは目を伏せる。即ち肯定。

「この、玉の正体も、お判りですか。ことさん」

 柳眉が寄せられ、ことの双眸が観念したように新田に据えられた。

「……追われた民の。品でしょう」
「え?」
「おい、こと。ここに来て詩人気取りか? 逃げるなよ。大海、お前もお前だ。ほだされるなんて、らしくないじゃないか」
「一体、何なんですか」

 ことの謎めいた単語。
 隼太の挑発的な物言い。
 そっぽを向く大海。

 彼らの全てが謎でしかない新田は、痺れを切らせた。
 大海が吐息を零す。

「新田さん。旧約聖書は読みましたか?」
「は?」
「だから。旧約聖書。そこでは聖典の民の祖はアブラハムとサラとある」
「はあ……」
「彼らの墓はヘブロンにあります。エルサレムの南にある、パレスチナ自治区ヨルダン川西岸地区の都市名です。……その玉の成分分析を詳しく行ってください。死海の塩が出て来る筈だ。だから、それは〝死海のビーズ〟と呼ばれています。その玉。黒に水玉みたいな模様がある」

 大海に指摘され、新田は慌てて直径二センチ程の玉を凝視した。

「……確かに。傷が多くて判りにくいですが。そんな感じに見えます」
「そうした特徴ある〝死海のビーズ〟。ヘブロンは千八百年かそれを遡る……極めて稀少なビーズだそうです」
「……――――犯人は難民? しかし」
「お守りだとする説もあります。あそこは世界的に有名な紛争地域だ。必死に平和な、……まあ一見ですが彼の地よりはマシでしょう、日本に辿り着くまでの長旅に身に着けていたのでは。そこで、あくどい商人もどきに捕まった。ここもまた彼女にとって、十二分に安全な場所ではなかった」

 大海が、すい、と右手人指し指をフェンスに向けた。
 
「――――――――血の滲んだ手で、死に物狂いで逃げたんです。あそこから」
「…………しかし」
「ええ。あの川の水は見た目よりも深く、急流です。加えて、この気温だ。事件発生からの経過時間を見積れば、下流域で犯人の遺体が見つかるでしょう」

 新田は茫然として目を瞠る。
 恐ろしく理路整然とした推理。辻褄つじつまは合う。
 大海が言うように、この川の下流で戦火が絶えぬ異国の人の遺体が上がったら。
 裏付けもされるだろう。

「ことさんが、追われた民と言ったのは難民のことでしたか……」

 ことは透徹とうてつとした目で無言を通す。
 コトノハを処方する音ノ瀬一族も嘗て追われ、逃げ惑う時期があった。
 隼太はそんな一族こそを特別視して、彼らの王国を創り上げようと目論んでいる。
 父親である大海は、ひたすらに隼太を守り続ける。

「不法入国、でしょうか」
「この界隈をうろつくしかないような境遇なら、そうだろうな」

 新田の誰にともつかぬ問いに、隼太が乾いた声音で応じる。

 また、風が吹いた。
 ここに来た時よりも、低温と感じられる風だった。
 ことがそっと口を開く。

「新田さんもお疲れでしょう。署に一報を入れられて、うちでお茶でも飲んで行かれてください」

 なぜだか新田は、母親に頭を撫でられる児童になった心地がした。

 傷があり、ひびも入っているちっぽけな玉。
 それが心臓のように脈打つ、尊い命とも思えた。
 こういうのもコトノハの内と言えるだろうか。

 かすかで、細々として、今にも息絶えそうなのに煌めいている貴石。


「大海」
「んー?」

 新田は緑茶と琥珀糖こはくとうを賞味して音ノ瀬家を辞去した。
 隼太は米国旧政権の高官のインタビュー記事を、パソコンで流し読みしている。勉強家のヴィラン、と大海はこっそり思う。

 うちの子って本当に頑張り屋さん。

 天使!

 どんどんずれていく大海の思考に水を差す口調で、その天使が形の良い唇を動かす。

「どうしてヘブロンの正体を明かすことを拒んだ? お前はそんなセンチメンタリストでもないだろう」

 身内関連を除き、と隼太はコトノハにせず付け加える。

「ああ……。犯人は女性だと思ったんだ。小型のナイフを滅茶苦茶に振り回したような傷が男性の遺骸にあったと聴いて。切れ切れになったチェーンを繋げたら、どうしたって成人男性の首周りには足りない長さだ」
「そうだな」
「〝死海のビーズ〟を後生大事に身に着けて、はるばるこんな東の島国まで逃げて来て。きっと彼女は、男に暴行を振るわれそうになったんだろう。男の手には長い髪の毛が数本、あったと言うし。とても酷い扱いに抗って、結果、彼女は水に沈んだ…………」
「だろうな」

 そこから大海の声が止んだ。
 代わりに烏の鳴き声が聴こえて来る。
 残照が大海に直面し、逆光となった。

「……磨理まりが知ったら、悲しむかなって思って」

 隼太はデスクトップの画面から父親に目線を移す。

「みんなが安全な家で穏やかに暮らしたいだけなのにね」
「お前でも何ともならんのか」

 寂しそうに微笑する父の顔が、逆光なのになぜか隼太には判った。

「ならないよ。僕は少し、見通しが利くだけの人間だ。世界を動かすのは隼太やことさんみたいな人たちだろう――――――――」

 隼太は何かを言おうとしたが、口を噤んだ。

 大海は死海だ。大きな海、死の海。死海のビーズ。

 ヘブロン。

 だから傷だらけのヘブロンは、大海自身でもあるのだと理解した。



敬愛するツシタラに捧ぐ。

ヘブロンに関する引用を、快く許可してくださった方に御礼申し上げます。


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