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大人の発達障害

 最近では「発達障害」という言葉そのものを失くそう、という運動が進んでいます。
 なぜなら、「障害」という呼称が、実情を反映していないものだからです。

 この事柄について、少しでもご存じの方であれば理解されると思います。
 
 脳の特性、特質。個性。
 概ね、そうした見解をお持ちでしょう。

 病気や障害とは明確な区分けを設けたほうが良い、と私も考えています。

 人は皆、誰しも「発達障害」と呼ばれているものの傾向を持っています。
 程度の強弱、リアルを問題なく過ごせているか。
 それらによって「発達障害者」と言われる方と、そうでない方がおられる現代社会です。

 そもそも、現代以前に「発達障害者」等は存在しませんでした。

 後世、つまり現代になるにつれ、「発達障害」という言葉が生れ、「発達障害者」と呼ばれる方たちが現れたのです。

 名前がつけられるようになっただけ。

 「発達障害」の要素を抱えながら、自然と大衆の中に生きていた。
 そうした方たちを現代、「発達障害者」と呼ぶようになりました。

 そうでなければ、今になって突然に「発達障害者」と呼ばれる方が増大した事の理由が見当たりません。時流による圧迫。それだけでは、説明として不十分です。

 私も「発達障害者」ですが、二十代の内に診断を受ける必要性を感じ、自分で医療機関で手続き、検査を受けました。
 「発達障害者」という診断を正式に下されたのは、27歳の事だったと記憶しています。

 極めて判りにくいカモフラージュ型。
 グレーゾーン。

 そのようにも言われました。

 「発達障害者」と呼ばれる方たちは、困る特質や個性があれ、そのほとんどが「自ら学習することが可能」な方たちです。

 ですが「発達障害」の強い傾向を持ちながら、家族や周囲に理解者がなく、孤独から息苦しくもなり、精神疾患を併発してしまわれる方も多い。
 
 そんな方には「自ら学習すること」も極めて困難でしょう。
 まずは精神疾患、心の痛手を癒すことが先決。
 
 これは、素人ですが「発達障害者」である私の経験則からの考えです。

 医学の中でも、精神、脳の仕組みに関わる分野は、これから更に解明が進むと思っています。

 今は「発達障害者」と呼ばれる方たちにとって、非常に生きるに困難な時勢です。

 のみならず、「発達障害者」と呼ばれる方、例えば鬱症状で苦しんでおられる方でなくとも、只、生きること。生活すること。
 日々の暮らしを落ち着いた心持ちで過ごすこと。

 それすらも厳しい世の中になっています。
 苦痛、悲嘆と無縁の人間は、ごく一握り。

 医学の内で、精神や脳の仕組みの解明が進んだ先。

 今、「発達障害者」と呼ばれる方たちにとっても、そうでない方たちにとっても、生き易い時代の訪れを私は望んでいます。

 この世界全体が今は病気にかかってしまっている。

 私の目からはそう見えてなりません。



過去作、フリージアの水彩画。







 

 

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