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小説『心臓』
癌ですね。
それも末期です。あちこちに転移しているので切除も出来ません。
何と申し上げたら良いか。
妻を診た医師は、眼鏡の縁をやたら触りながら、ドラマでよく聞くような台詞を並べ立てた。
まだ若い医師は、台本を読み上げているようだった。
俺は、例えでなく一瞬、目の前が真っ白になった。
全ての音が遠ざかり、その空間には俺しかいない。そんな感覚に陥った。
病院からの帰り、夕暮れの空を数羽の烏が飛んでいた。
金色で真ん丸の日が、とても眩しく感じられた。滲んでいる。
滲んでいるのは俺が泣いているからだと、通行人の視線で判った。
鉄橋の歩道を渡りながら、俺は気づけばシャツの胸を握り締めていた。夏の暑さに汗を吸ったシャツは湿っていて、その感触に、ああ、俺は今生きているのだと思う。
生きている。
あいつは死ぬのに。
死、という言葉を想った時、どくん、と心臓が大きく鳴った。
どくん、どくん、どくん、と、それ自体が独立した生き物であるかのように、心臓は叫び続けた。
長年連れ添った夫婦によくあるように、互いをなしではいられない特別な『空気』だと感じるところが俺たちにもあった。
その空気がもうすぐ無くなるという。
俺も死ぬのかな?
莫迦な自問を嗤う。
そんなドラマチックな話は物語の中だけのことだ。
実際は、人は、生きる。
地球の裏側で誰が死んでも。
自分の隣で誰が死んでも。
俺の心臓は少しずつ静かになっていった。
それと比例するように、俺の身体は指先から冷たくなっていく。静かに。
猛暑の中、俺だけが寒色で塗られているように。
小さく呻く。
あいつが死んでも俺は生きる。
独りの日常をこしらえるまでに、少し時間はかかるだろう。
胸の空漠が疼いてたまらない日もあるだろう。
それでも俺は生きるのだ。
あいつのいない日々を。
一つだけ確かに言えることは。
あいつが逝く時。
俺の心臓の大部分も、ごっそり持って行かれるだろうということだ。
どうすればいい。
なあ。
俺はどうすればいい。
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